『レスター 少女と記憶と道化師と』

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 ――チクタクチクタク。
 一定のリズムを刻む時計の音。
 ――チクタクチクタク。
 一定のリズムを刻む心臓の音。
 少女は待った、記憶に残る少年を。
 少女は待った、温かい太陽のような少年を。
 少女は再び、その少年に再会することを望んでいた。
 また、あの笑顔を見るために。
 少年の隣に座り、少年と他愛のない話をして、自由気ままに暮らすことを。
 少女は切に望んでいる。
 少年と暮らす時間だけを。
 ただ、それだけを望んでいた。
 それ以外は何もいらない。
 ――リン。
 少女の手に小さな鈴。
 少年のくれた鈴の音は今日も綺麗な音を奏でる。
 季節は秋。
 空は高く、澄んだ青がどこまでも続いている。
 少女のいる、この街は秋色に彩られていた。
 様々な花々が咲き誇り、四季のハッキリとした花の街。
 その街外れの丘の上に大きなお屋敷がある。
 さらにお屋敷の3階にある一室。
 そこには大きな窓があり、街全体を見渡せる。
 少女は窓際に座り、窓の外を見ながら、季節の移り変わりを感じていた。
 街を行き交う人々を見ては、目的の人物を捜す。
 しかし、その人物は目に映らない。
 ただ、楽しそうな街の人たちが映るだけ。
 こんなにも楽しいが近くだというのに、とても遠くに感じるのはなぜ?
 少女は丸いテーブルを挟んだ向こう側にある空席を見つめる。
 そして少女は、今日もまた、溜め息をつく。
 ――リン。


 トントン。
 少女の部屋の扉を叩く音がした。
 少女は振り返り、扉を見る。
 それから静かに立ち上がり、扉を開いた。
 「こんにちは」
 扉の向こうに立つのは、笑顔で挨拶をする10代半ばの少年。
 少女はその少年を見て、顔を驚きの色に染める。
 そして、これでもかという笑顔に変わった。
「ヴェ、ヴェル! 戻ってきてくれたのね、ヴェル!」
 ヴェルと呼ばれた少年に少女は抱きついた。
 少女の透き通るような白い頬は高潮し、大きく青い綺麗な瞳は嬉しさに染まる。
 腰まである金髪を揺らし、その細くか弱い腕で、力強くもう放さないと言うように。
「おかえりなさい」
 少女は力強い抱擁をやめ、両手をヴェルの頬に優しく添えた。
「さあ、もっとあなたの顔を見せて。ああっ、なんて美しい顔なのかしら。綺麗な肌。その見る者を吸い寄せる漆黒の瞳。それと瞳とお揃いの黒く綺麗な髪。記憶の中のあなたと同じ。さあ、中へ入って」
 頬に添えた手をヴェルの背に回し、中へと導く少女。
 しかし、ヴェルは中へと入ろうとしなかった。
「どうしたの、ヴェル? さあ、中へ入って」
 少女は不思議そうに小首を傾げる。
 ヴェルは言う。
 自分はヴェルではないと。
「ヴェル、じゃない? ……じゃあ、あなたは誰なの?」
 少女は悲しそうな目をして、少年に問う。
「僕の名前はレスター。申し訳ないですが、ヴェルさんではないです」
「……そう、レスターと言うのね。……あなたはヴェルではないのね?」
 レスターは少女の問いに頷いて答えた。
「そう、残念ね。でも、せっかく来たのだから中へどうぞ。一緒にお茶にしましょう。ここにお客様が来るのは久しぶりなの。レスターさんさえよければの話だけど……」
 少女の瞳は言う。
 帰らないで、と。
 少女の瞳はレスターに訴えかける。
 私を1人にしないで、と。
 レスターは少女の誘いを受け取った。
「僕でよければ、喜んで」
 そのレスターの返答に少女の顔は明るくなった。
「嬉しいわ。さあ、中へ。今すぐ、お茶の準備をするね」
 少女は嬉しそうにレスターの腕を引っ張り、中へと連れて行く。
「お邪魔します」


 大きな窓の側。
 そこにある丸いテーブルを挟んで、レスターと少女は向かい合うように座った。
 机には、甘い香りの紅茶と少女の作ったケーキが置かれていた。
 少女は出された紅茶を飲むレスターを嬉しそうな顔で眺める。
 しかし、レスターは気にせず、おいしい紅茶を楽しんだ。
「あなたは本当にヴェルに似ているのね。ねえ、レスターさん。ここにいる間だけ、ヴェルと呼んでいいかしら。私のこともルティーと気軽に呼んで。ええ、そうしましょう。ねえ、ヴェル。紅茶のおかわりはいかが?」
「……いただきます、ルティーさん」
 レスターは断っても、ヴェルと呼ぶだろうと、あえて口にしなかった。
 それよりも、おいしい紅茶のおかわりが優先された。
「おいしいですね、この紅茶」
「敬語はやめて、ヴェル。私たちの間に遠慮はいらないはずよ。敬語をやめないと、もう紅茶のおかわりをあげないわ。その手作りケーキも私が食べちゃうわよ」
 そう言って、ルティーは頬を膨らませ、すねた顔をする。
 手には、レスターに出したケーキと紅茶の入ったポットを持っている。
 それを見て、レスターは仕方がない、と思う。
 せっかくのおいしい紅茶のおかわりがいただけないなんて。
「……ごめん、ルティー。もう、敬語はやめるよ」
 それを聞いて、ルティーは満足そうに頷く。
「よろしい。じゃあ、ケーキを返してあげるわ。それと、紅茶のおかわりも」
 ルティーはケーキを返し、紅茶のおかわりをレスターのカップに注いだ。
 その紅茶の香りをレスターは楽しむ。
 それはとてもいい香りだった。
「ヴェル、この花を覚えている?」
 ルティーは立ち上がり、ベッドの脇へと歩いた。
 ベッドの横には置かれた綺麗な曲線を持つ花瓶を手に取り、テーブルの上に置いた。
 花瓶には一輪の紅いバラ。
「あなたがこの街を旅立った日。その日は、この街の慣わしである男性が愛する女性に一輪のバラを贈る日だったわ。あなたは旅立つ前にこの一輪の紅いバラを贈ってくれたわよね。とても嬉しかった。心がとても温かくなったわ。今でも、このバラは赤々と私の想いと同じように咲き続けているのよ」
 ルティーは嬉しそうにバラを見つめながら、レスターに語った。
 しかし、レスターはその紅いバラとルティーを悲しそうな瞳で見つめる。
 その後も、ルティーはヴェルとの思い出話をレスターに語り続けた。
「ほら、このとても可愛らしい鈴。私の誕生日にあなたがくれた鈴よ」
 ――リン。
 ルティーが鈴を軽く揺らすと、綺麗な鈴の音が鳴り響く。
「それにほら、この花飾りも」
 ルティーはヴェルからもらったプレゼントを次々に見せていく。
 そしてルティーは、なんだか自分ばかりが話しているわ、と不満そうに言う。
「――今度はあなたの番よ、ヴェル。だって、先程から私の話ばかり。ねえ、ヴェル。あなたが見てきた旅先での話を聞かせて」
 ルティーの瞳はレスターの瞳を見つめてお願いする。
 ――話して、私の知らないあなたのことを。
「……いいよ。では、ある雪の降る街での出来事を――」
 レスターは旅での出来事を話し始めた。
 ルティーはそれを黙って聞く。
 レスターの話すことに一喜一憂しながら。
 レスターの話、ルティーの話は途切れることなく長いこと続いた。
 ふとレスターが外を見ると、空は暗くなり始めている。
「――ところで、ルティーはこの男のヒトを知っている?」
 レスターは一枚の写真を取り出し、ルティーへ見せた。
「その写真の彼はソルト・シンフォニー。僕は彼を探しているんだ」
「……ソルト・シンフォニー。ヴェルの話に出てきた人ね」
 ルティーは写真に写るソルトを見て、記憶を辿る。
「ああっ、この間、私を訪ねてきたヒトだわ」
「やはり、情報は正しかったようだ。ルティー、彼はどこへ行くとか、言っていたかい?」
 ルティーは小首を傾げ、思い出そうと考え込む。
「なんでもいい。思い出してくれ、手がかりが、彼の手がかりが欲しいんだ」
「……名前は忘れたけど、どこか暖かい地方の名前を言っていたわ。ごめんね、それしか思い出せないの」
 ルティーは、とても申し訳なさそうな顔をして、レスターに謝る。
 その瞳は、今にも泣きそうだった。
「……そう。いや、ありがとう。それだけでもわかれば、十分だよ」
「そうなの? ヴェルの役に立ててよかったわ」
 それを聞いて、ルティーの顔は明るくなる。
「ねえ、ヴェル? そろそろお腹はすかない? 私、あなたの好きな料理を作るわね」
 嬉しそうに席を立つルティーにレスターは言う。
「いえ、結構です。明日にはこの街を発つので、今日はゆっくりと宿で休みます」
 それを聞いて、ルティーの顔が曇る。
 そして、とても不満そうな顔に。
「街を、発つ? なぜ、何故なの、ヴェル!? また私を置いて、どこへ行くと言うの!?」
 彼女の声は、次第に大きくなっていく。
 体を使い、表現がより大きくなっていく。
「最初に言いましたが、僕はレスターです。ヴェルさんではないですよ」
「違うわ、何を言っているの? あなたはヴェルよ。だって、あなたは私の記憶にあるヴェルそのものですもの! その、綺麗な肌も! その、黒い髪と漆黒の瞳も! 何よりここへ来たときに見せたあなたの笑顔は、私の知っているヴェルですもの!」
 ルティーはどこにも行かせまいとレスターを強く抱きしめる。
 テーブルは倒れ、その上に置かれていたポットやカップは落ち、音をたてて割れた。
 どこにも行かないでとレスターの瞳をルティーは下から覗くように見つめた。
 その見つめてくるルティーの瞳をレスターは哀れむような瞳で見返した。
「僕は、レスターです。他の誰でもない。もちろん、ヴェルさんでも」
 それでもなお、ルティーはレスターを放そうとしない。
「あなたがヴェルでないのはわかったわ。でも、ヴェルでなくても構わない。お願い、レスター、もう少しだけ。私の側にいて欲しいの」
 ルティーの愁いに帯びた瞳がレスターの瞳を見つめる。
 視線を外さず、ルティーは両手でレスターの頬をそっと押さえ、自らの唇をレスターの唇へとゆっくりと導く。
「こうやって少年たちの心を奪ったのですか?」
「!」
 それを聞いて、ルティーの動きが止まった。
「この街では不思議な出来事が起こるらしいですね」
 ルティーは最後まで言わせまいとレスターの唇を奪おうとする。
 しかし、ルティーの唇にレスターの人差し指が置かれ、ルティーの動きが止まる。
「あなたに僕の唇は奪えない。もちろん、心も」
 言い放つレスターの言葉と、唇に触れる優しい指、そして、吸い寄せられる瞳にルティーは頬染め、ヴェルと呟く。
 惚けるルティーを前にし、レスターは話し出した。
 この花の街は、花々に囲まれた自然に満ちた街。
 これといった事件が起きることはなく、人々は平和に暮らしていた。
 しかし、ここ数年。
 この辺りに伝わる言い伝えに似た出来事が起きていた。
 その言い伝えとは、夢の中であった妖精に恋した少年の話。
 深夜に目を覚ました少年は月明かりに照らされている美しい妖精と出逢った。
 それは何度も夢で見た妖精。
 少年は声をかけようとするが、妖精はそのままどこかへと飛び去ってしまう。
 少年はその妖精に心を奪われ、妖精が棲んでいると言われる森へと度々姿を消していた。
 周りの人間は呆れるが、少年は構わずその妖精を求め、捜し歩いた。
 そんな時、少年の耳に鈴の音が聞こえてきた。
 少年はその鈴の音に導かれ、少年は妖精と再会を果たし、想いを伝えた。
 妖精はその想いを受け取り、一緒に森で暮らすことにした。
 それは少年にとって、とても幸せなものだった。
 しかし、妖精にとってはただの暇つぶしだった。
 妖精はその暮らしに飽きると、少年を森から追い出す。
 だが、少年は妖精をあきらめることができなかった。
 少年は何度も何度も妖精に逢おうと試みた。
 だが、少年は妖精に会うことが出来ない。
 周りの人間は心配するが、少年は構わずその妖精を求め、捜し歩いた。
 だが、少年は再び妖精と逢うことができずに力尽きて息絶えた。
 そんな少年の話。
「――その言い伝えられる物語と似た出来事が起きているそうですね」
 ここ数年、この街で言い伝えに似た不思議な出来事が起きていた。
 それはこのお屋敷の前で少年たちが死に絶えるという出来事だ。
「この街に着てから、僕は夢の中であなたに何度も会いました。そして、その鈴の音が僕の耳に届き、魔法をかけようとしてきました。いなくなった少年たちも同じ体験をしたのでしょう。しかし、僕にはかからなかった。かかるのは魔力がない者くらい。それでも僕はやってきました」
「嬉しいわ、レスター。この鈴の音の魔法にかからなかったのに、私に会いに来てくれたなんて。やはり、あなたはヴェルなのよ」
 ルティーは嬉しそうに左手をレスターの頬に伸ばした。
 しかし、レスターはその左手を静かに払った。
「僕がここへ来たのはソルトがここに立ち寄ったと聞いたからです。ソルトはあなたが使うとされる時の魔法の構築と制御法を学びに来たのでしょう。そうですよね、『勿忘草の人形師』アルティーラさん?」
 左手を払われたままの姿勢でいたアルティーラは左手を下ろし、俯いた。
 俯いた顔は長い髪に隠れて、表情が読み取れない。
「……そう、私に会いにきてくれたわけじゃなかったのね」
 アルティーラはレスターに応えることはなく、静かに、寂しそうな声で呟いた。
 それにレスターは気にせず、話を続けた。
「あなたは街にいるヴェルさんに似た少年たちに目を付けると鈴を使って呼び寄せた。でも、鈴を使って出来るのは、このお屋敷に連れて来ることだけ」
 ――リン。
 アルティーラは鈴を鳴らす。
 その綺麗な鈴の音は部屋に響き渡った。
「しかし、少年たちはあなたに心を奪われていた。あなたの美しさに惚れて。でも、しばらく経ってからあなたはその少年に飽きる。そして、このお屋敷から追い出した」
 ――リン。
 その鈴の音が鳴り終えると、黒い影が天井から降りてきて、姿を現す。
 その影は赤、青、緑のまだら模様の服に身を包み、手にはスラップスティック、顔にはネコの仮面を付けていた。
「いきなさい、私の人形」
 対魔導師用機械人形。
 魔力を持たない者が魔導師相手に戦うために作り出された機械人形である。
 その強さは、製作者によって、強弱様々であり、一概に強さを測ることが出来ない。
 また、人間の中に紛れ込ますために外見を人間のようにしている人形もある。
 そして、『勿忘草の人形師』は一流の対魔導師用機械人形製作者として知られていた。
 「しかし、少年たちの心はあなたに奪われたまま。彼らはあなたに会いたくて、またお屋敷に入ろうとする。でも、入れない。結界が張ってあるから」
 ――リン。
 人形は動き出し、レスターに襲い掛かる。
「外界との干渉を断つ結界。入れるのは、鈴に導かれた者と魔導師のみ。魔力を持たない少年たちには入ることが出来ない。でも、少年たちは諦めない。来る日も来る日もどうにかして入ろうとする。でも、入れない。そして、最後には衰弱して息絶える」
 レスターの瞳は目前に迫った人形に覆われる。
 人形は目前の黒い服で身を覆う少年、レスターに拳を振るった。
 大きな体躯でありながら、その拳は鋭く速い。
「そして、あなたはそれを繰り返している。ヴェルさんの代わりを求めて」
 レスターはその拳を軽く交わしながら話し続ける。
 ――リン。
 鈴の音は鳴るたびに音が大きくなっていく。
 それに合わせて、人形の攻撃も激しさを増していく。
「でも、ヴェルさんはやってこない。それはなぜか?」
 しかし、それでもレスターは交わし続ける。
 何事もないように。
 ――リン。
 アルティーラは鈴を激しく鳴らす。
 それ以上、先を言わせないように。
「すでにヴェルさんは殺されているから」
 ――リン。
 それは鈴が割れそうなほどのひどい音。
 人形はスラップスティックで打ち込んできた。
「アルティーラさん、あなたの手によって」
 鈴はアルティーラの足元に落ちて、鈴の音が止み、人形も止まった。
「……私は殺していない」
 何とか声を絞り出した、そんな印象の声で呟く。
 しかし、レスターは構わず、話を続けた。
「あなたのいうヴェルさんは『雁金草の結界』ヴェルキーノさんのことですよね? あなたとヴェルさんは10代半ばで一流の機械人形製作者2人組として知られていた――約20年前の話ですが」
「……私はただ、彼の願いを聞いてあげただけ」
「そんなある日のこと――」
 アルティーラは魔導師のみがかかる病気にかかった。
 今ではその病気も完全に治るものだが、当時はまだ治す薬が発見されていなかった。
 ヴェルキーノはその薬を開発中の研究所に向かい、1日でも完成を急いだ。
 その間、アルティーラは病気が進行しないように、自らの時の流れを遅らせて、ヴェルキーノの帰りを待った。
「……あれは彼が望んだこと、私は彼を助けただけ」
「――使用魔法は失われた古代時魔法のようですね。効果範囲はこの部屋。とても複雑な構造式の中をあなたの莫大な魔力が流れていること。それのせいで、あなたは他の魔法がほとんど使えない状態にある、といったところでしょう」
 そして、今から約5年前。
 長い年月をかけ、ヴェルキーノたちは薬を完成することに成功した。
「――彼は喜び、あなたへ飲ませる為にこのお屋敷に戻ってきた。それが僕の知っているヴェルキーノさんの最後の情報です。そして、今はなぜか、そこにいる人形から本当に微量ですが、一瞬だけ雁金草の魔力光を感じました。それはなぜでしょうね?」
 レスターが話し終わり、しばらく沈黙が流れた。
 そして、それを引き継ぐように、アルティーラは顔を上げ、話し出した。
「――張っていた結界を越え、この部屋へと彼はやってきた」
 部屋の中にいたのは、15年前と変わらぬ姿のアルティーラ。
 部屋に入ってきたのは、15年の時を過ごしたヴェルキーノ。
「……ヴェル、なの?」
「ああっ、そうだよ、ルティー! 見てくれ、完成したんだ!」
 アルティーラは渡された薬を飲み、数日後、完治した。
 ヴェルキーノはとても喜んだ。
 長い年月をかけ、アルティーラのために頑張ったことが実ったのだから。
 しかし、ヴェルキーノはアルティーラの様子がおかしいことに首を傾げた。
 どこかよそよそしさを感じる。
「どうかしたのかい、ルティー?」
 ヴェルキーノは心配し、アルティーラの肩へと手を伸ばした。
「いや、触らないで!」
 アルティーラはヴェルキーノの手を思いきり払い、ベッドの陰へと隠れた。
 そして、ヴェルキーノに部屋を出ていくように言った。
「なぜ、どうしたっていうんだ、ルティー!?」
 困惑しながらもヴェルキーノはアルティーラに訊ねた。
 アルティーラは目を合わせずに、震えた声で答えた。
「ルティーと言っていいのは、ヴェルだけ。この部屋に入っていいのは、ヴェルだけ。それ以外の人は入らないで!」
「何を言っているんだい、ルティー? ヴェルは俺だよ。さあ、そんなところにいないでこっちにおいで」
「いいえ、違うわ! 私の中のヴェルはとても美しいヒト。あなたのような醜い姿をしていない!」
 アルティーラは待っていた約15年の間、部屋から出るわけにも行かず、この部屋で記憶にあるヴェルと共に過ごした。
 何をやるにも記憶にあるヴェルのことを思い出す。
 それでも、寂しくなるときがあった。
 記憶の中のヴェルはアルティーラが話しかけても答えてはくれなかったから。
 そして、求めた。
 記憶の中ではないヴェルを。
 しかし、再会したヴェルキーノは記憶の中にいたヴェルとは別人と化していた。
 だからこそ、そのショックはとても大きかった。
 目の前にいるのは、ヴェル。他の誰でもないヴェルなのよ?
 アルティーラは自分に言い聞かせた。
 だが、それも効果はなく、目の前のヴェルキーノが別人にしか見えなかった。
 アルティーラが選んだのは、記憶の中のヴェル。
 だからこそ、目の前のヴェルキーノが邪魔だった。
 記憶の中のヴェルを汚すヴェルキーノが。
「……お願い、私を苦しめないで! お願い、私のヴェルを傷つけないで!」
 アルティーラは感情的になり、キッチンのナイフを取り出し、ヴェルキーノへと手を伸ばした。ヴェルキーノは避けることをせず、目を瞑り、それを受け入れた。
 ナイフはヴェルキーノの体深くまでささり、ヴェルキーノは膝を折ってそのまま崩れた。
 アルティーラは崩れ落ちたヴェルキーノを上から眺めた。
 ヴェルキーノは傷口を押さえながら、アルティーラに話しかけた。
「あ、厚かましい、けど、お、願いが、2つある。聞いて……くれるかい?」
 ヴェルキーノは息を切らしながら、なんとか言葉を伝える。
「……ええ、いいわよ。薬のお礼としてね」
「お、俺が……死ぬ、まで、側にいて、くれ。それと、俺が死んだら……君の、人形、として、側、において、くれ」
「……ええ」
「……よかった」
 それからすぐにヴェルキーノはこの世を去った。
 そして、アルティーラの手によって、今の姿となったのだ。
「――だから、これは彼が望んだこと。私は彼を殺したのではなく、彼の願いを叶えてあげたのよ。そして、彼は私の中にいるヴェルを名乗った哀れな道化師にぴったりの姿にしてあげたわ」
 そう言って、アルティーラは動きを止めて、固まっている人形へ目をやった。
「……それから記憶に残るヴェルさんの幻影を求めた、ということですか」
「幻影でも構わない。もう、1人は嫌だったから」
 アルティーラはとても静かにレスターに1歩1歩近づいて行く。
「……ずいぶん身勝手な話ですね。僕に言わせれば、あなたの方が哀れな道化師に見えていました」
「ええ、知っていたわ。だって、あなたの瞳はずっと私を哀れんでいた。今日、この部屋の扉を開けて、出会った時から。あなたは必死に隠そうとしていたようだけど、嘘が下手なようね。それでもヴェルに似たあなたの前で必死に演じたわ。とても幸せだった時の私を。ふふふっ、本当に道化師のようね」
 さらに近寄り、アルティーラはレスターの頬に触れようと手を伸ばす。
「でも、仕方がないの。私の想いは消えない。今さら消すことができない」
 手はレスターの頬に触れ、そのままレスターを抱き寄せる。
「でも、最後にあなたに知ってもらえてよかったわ――」
 優しい抱擁を解き、アルティーラは1歩後ろに下がった。
「――ヴェルそっくりなあなたに」
 レスターの手にはいつの間にか大太刀が握られていた。
 そして、
「さようなら、哀れな道化師さん」
 レスターは最後の言葉を告げた。


 宿の一室。
 夕食を終え、レスターは紅茶を飲んでいた。
 しかし、その紅茶が口に合わない。
「あの紅茶、どこのだろう?」
 窓の外。
 丘の上にある崩れたお屋敷に目をやり、おいしい紅茶のことを思い出していた。
 そして、ヴェルとルティーのことを。
「――暖かい、地方か」
 ルティーから聞いたソルトの情報。
 それと街で聞いた情報を合わせて、ソルトの向かった先の予測はついた。
 明日の早朝、そこを目指す。
「ソルト。君はいったい何をしようというんだ?」
 秋はそろそろ終わりを告げ、新しい季節がやってこようとしていた。
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