『百瀬八尋のバレンタインデー』

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 百瀬八尋ももせやひろは気が弱く、故に引っ込み思案な面もあるけれど、純粋で心優しい女子高生である。
 けれど、そんな性格からは想像もつかない二つ名を持っていた。
 それが『存在自体がわいせつ罪』という二つ名である。
 とある出来事をきっかけに、そんな二つ名で呼ばれていることを知った八尋は、その二つ名を否定した。
 それでも、そんな彼女の否定とは逆に、その二つ名を肯定している者が多々いるのも事実である。
 肯定する者は知っていた。彼女には、とてつもない魅力があると。
 彼女の容姿が、仕草が、声色が、または他の要因が、兎にも角にも他者の心を惹きつけて離さない。逃がさなかった。
 その魅力は、留まることを知らない。留まらずに、留まろうとせずに、相手の性欲すらも刺激して、興奮状態にさせてしまう。
 八尋の意思とは関係なく、自覚することなく、無自覚に他者を魅了して、興奮状態にさせてしまうのだ。
 だから、それを知っている他者は、それを経験した他者は、肯定する。
 百瀬八尋は『存在自体がわいせつ罪』なのだと。
 とはいえ、他者全てが肯定するわけでもない。万人が彼女に魅了されるわけではないからだ。
 現時点で。そうそれは、あくまで現時点の話である。
 いずれ、彼女は誰彼構わずに魅了してしまう。魅了された者は、彼女しか見えなくなる。他の者へ見向きもせず、ただただ彼女だけに心が向く。心を支配される。
 それはつまり、恋が生まれない。世界中に生まれるであろう恋が、潰されていく。
 恋が愛に変わり、それが形になって子が産まれる。そんな人類がこれまで歩んできた道が、完全に絶たれる。絶たれてしまう。
 そんな魅力は、常識から外れている。特別で、異質で、非常識な、魅惑の力だ。
 だからこそ、そんな力が引き起こすかもしれない未来を阻止する為に、一人の『天使』が八尋の元を訪れることになったのだ。
 『天使』の名前は、クフラ。『愛の神』クピドの属性を持つ金髪碧眼きんぱつへきがんの幼女である。
 クピドの属性を持つ『天使』、つまり『恋のキューピッド』である彼女の役目は、八尋の恋を成就させること。
 理由を話せば長くなるので端的に言えば、愛する人の存在が八尋の能力を良き方向へ変えてくれるという考えに至ったからだ。
 つまり、愛の力である。
 その目的を遂行する為に最適な人選を行った結果、クフラに白羽の矢が立ったというわけだ。
「――で、私と百瀬さんが出会ったその日から紆余曲折があった末、九日が過ぎましたね」
 クフラは、八尋の部屋にある炬燵こたつに入って、蜜柑みかんの皮を剥きながら、その可憐な顔に笑みを浮かべて言った。
「うん、あっという間の九日間だったね。それに、あの怪異も去って、あの子も好きな男の子と付き合うことになって良かったよね」
 その対面で豊満な胸を机に預けていた八尋が答え、蜜柑の皮を剥きながら、その九日間にあった出来事を思い浮かべる。
 クフラと出会った日に聞いたそれは、八尋にとって信じ難い話だった。けれど、この九日間の出来事が、その考えを引っくり返すことになった。
 あの日。あの子と出会って、クフラと共にあの子が巻き込まれた怪異譚かいいたんを乗り越えて、気がつけばクフラの話を受け入れていた。
 たった九日間で、これまでの日常が覆ることになるなんて思いもしなかったな、と八尋は蜜柑を口に運ぶ。
「さて百瀬さん。これまでの九日間は、主にあの方々の怪異譚についてやらであっという間に時間が経ちましたけれど、それも決着がつきました。ここからは本題である百瀬さんの恋を、真田綾人さなだあやとさんとの恋愛を成就を叶える番です」
「……うん、そうだね」
 八尋は、クフラの言葉に頬を赤くさせならがも、しっかりとした口調で答えた。
 そんな八尋の返事を聞いて、炬燵に入って寝転がっていた鞠尾美紀まりおみきが言う。
「茶化すのもなんだけれど、と言いつつ、茶化すけれど。百瀬が恥ずかしがらずに返事をするとはね。いや、恥ずかしがっていないわけではないのは分かるけれど、それでもちゃんと返事するなんて。クフラちゃんと出会って間も無く、クフラちゃんが百瀬に真田先輩のことを尋ねた時は『さ、真田先輩は、そんな、私の、えっと、あの、なんて言いますか、なんて言いましょうか、命の恩人で、別にそんな、えっと、あの、さ、真田先輩は、そんな、私の――』ってな感じで、耳まで真っ赤にしておろおろしながら、話が無限ループしていたって言うのにね」
「もう、恥ずかしいから言わないでよ、美紀ちゃん。あとその言い方とかって、私の真似?」
「真似。激似だったでしょ?」
「似ていません。それよりも、いつから起きてたの?」
「百瀬が恋する乙女の顔で『……うん、そうだね』って言っていた辺りに起きた。うん、今の真似は、より一層似ていたね」
「より一層似ていません」
「頑なに認めないな、百瀬は。まあ、いいか。それよりも言うのが遅くなったけど、おはよう」
 鞠尾美紀は起き上がり、乱れた金髪を後頭部の高い位置で一つにまとめたポニーテールを作りながら、二人に挨拶をして、二人も返事をした。
「まったく美紀ちゃんは。炬燵で寝ると風邪を引くよって言ったのに、全然起きないんだもん」
「私を起こせるのは私だけだよ、百瀬。如何なる存在も私の睡眠を邪魔できないのだ。それに炬燵で寝るのは仕方が無い。このぬくぬくに抗えるはずが無いんだから。もう炬燵に入った時点で、こうなる未来は見えていたね。私は今、炬燵を満喫中なんだよ」
「私も蜜柑が美味しくって止まりません。見てください、手が黄色くなっちゃいました。これが夢心地の代償に怠惰を与える炬燵の魔力なんですね。私、このままだと堕落して『堕天使』になってしまうかも、とか思っていますよ」
「あははっ。『堕天使』になったクフラちゃんも見てみたいかも。でもまあ、炬燵に蜜柑って定番だよね。私も一つ食べよっと。もらうね」
 と、美紀は炬燵の上にあるカゴの中から蜜柑を一つ手に取った。
「うん、美味しい。それにしても、良い巡り合わせって言うかさ。百瀬の決意が固まって、告白すると決めてすぐにバレンタインデーを迎えるなんてね。なんだか百瀬の背中を後押してくれてる感じがするよ。それで、真田先輩に渡すチョコの準備は出来た? 私は昨日、先に床に就かせてもらったから完成を見届けてないんだけどさ。ほら、あの、昨日百瀬が自分の体にチョコを垂らして型を取って作った原寸大百瀬八尋チョコは、もう問題なく出来たの?」
「そんなの作ってません! 仮に作ったとしても、そんなの渡されたら、真田先輩がどん引きするよ!」
「あ、あれ? ごめん、記憶違いだったかな。ほら私、あの時大分疲れて、ぼうっとしていたし。えっと、確か……そうだ、そうだった。百瀬が自分の体全体にチョコを垂らして、『私の隅々まで味わってくださいね』って自分も一緒に差し出す方だったよね」
「それも違います!」
「あれ、おっかしいな」
「おかしいのは美紀ちゃんでしょ。ほら、これ。これが作ったチョコだよ」
 そう言って、八尋は一旦炬燵を離れると、手提げ袋から綺麗にラッピングされた箱を取り出して、炬燵の上に置いた。
「おおっ、何やら素敵なラッピングが施されてる。半端ないね、これは」
「ありがとう。それから――」
 八尋は再び手提げ袋に手を入れると、
「真田先輩のとは別に、皆で食べようと思って、こっちも作ったの」
 大きな箱を取り出して、炬燵の上に置いた。
 そして八尋が箱の蓋を開けると、中には色々な種類のチョコレートが入っていた。
「おおっ!」
「これは、これは。美味しそうですね」
 美紀とクフラが嬉しそうな声をあげ、早速チョコレートを食べて、その美味しさを絶賛すると、八尋は少し照れた笑みを浮かべた。
「相変わらず百瀬は料理が上手いな。女子力が半端ないわ。さすが私の嫁――いや、これからは真田先輩の嫁、と言うか恋人になるのか。いや、いずれ嫁になるのか。まあ、その辺は今は良いとして。二人が付き合い出したら、もう百瀬の体は、私だけの物じゃなくなるのか。そこはなんだか寂しいな」
「いやいや美紀ちゃん。私の体は私の物だよ。いつ美紀ちゃんの物になったの?」
「……えっ?」
「そんな目を丸くして驚かなくても。と言うよりも、そんな本気で驚かれたことに、こっちが驚いてるんだけど」
「いやいやいや、百瀬の方こそ待ってよ。えっ、何を言っているの? だって、そう、例えば、その煩悩の数とイコールなサイズのおっぱいだって私が触りたい時には自由に触っていいし、枕にしたりしてもいいはずだよね? ここまではいい?」
「ううん。その時点で、もうおかしいよ」
「えっ、そうなの? 私はてっきりそうだとばかり思っていたから、これからは真田先輩も百瀬のおっぱいを触りたい時に触っていいし、枕にしていいから、まあ、私の独り占めができないよね? だから私だけの物ではなくなって、これからはお互いに相談して、触ったり枕にしたりするスケジュールを決めていかないとな、と言うことで間違いはないかと思ってたんだけど……えっ、違うの? どの辺りが?」
「どの辺りも何も全部がだよ、全部。今だって『百瀬の』って言っている時点で私のでしょ?」
「いやいや、違うね。百瀬の物は私の物。私の物は私の――いや、私はそこまで横柄じゃないな。じゃあ、私の物は百瀬の物でもいいや。だから百瀬、私のおっぱいを触ったり、枕にしたかったら、その、優しくしてね」
「頬を染めないでよ、美紀ちゃん。しないから、そういうこと。だから、それよりも私の物は私の物にさせて。ねっ?」
「うーん。まあ、そこまで言うのなら仕方が無いけど。でも私は触るよ? 例え、そのおっぱいが私の物ではなく、百瀬の物であっても。これまで通り、私は触る……!」
「凛々しい顔で断言された!? なんだかカッコいい……! いやいや、カッコいいとか、それはさておいて。これまで通りって言ったけど、枕にしたこと無いよね?」
「ああ確かに。触ったことはあるけれど、枕はまだないわね。どれ、折角の機会だから、早速枕に――」
「させません!」
「そんなぬるい両手ガードで、私から逃れられるとでも思っているの? おっぱいが隠れ切れてないぜ? その超大物がな。ふっふっふっ、真田先輩の物になる前に、私が百瀬の純潔を私の色に染めてやるぜ!」
「きゃあー!」
 そんな風に二人が戯れているのを、クフラは微笑ましく見ていた。
 告白前だというのに、八尋にそれほど緊張の様子はない。今も楽しそうに笑っていられるのは、美紀という存在が安心感を与えているのだろう。
 やはり八尋の言っていた通り、美紀は本当に仲の良い友達なのだと、クフラは改めて実感する。
 そう。鞠尾美紀は、八尋の幼馴染みであり、唯一無二の親友である。
 さらに言えば、同級生。もっと言えば、クラスメイト。そして、クラス委員長でもあった。
 クラス委員長は、クラスにおいてリーダー的な立場の役職である。その役職を持つ彼女は、クラスにおいて、確かにリーダーだった。クラスの中心にいた。
 祭り騒ぎが好きなそのクラスで、クラスメイトをまとめて先導するのは、いつも彼女である。先頭に立ち、騒いでいた。とても楽しそうな笑顔を浮かべて、皆と遊んでいた。
 明るく活発。積極的で社交的。面倒見が良く、気さくで人当たりの良い彼女を、皆は口を揃えて姉御肌だと言う。
 そんな彼女に、いつも八尋は引っ張られていた。引っ張ってもらっていた。
 そして今回も、彼女が背中を押したからこそ、八尋は告白する決断に至った部分は大きい。
 クフラとの出会い。それからの九日間。告白する切っ掛けはそこにあるのだろうけれど、それでも一番はやはり、美紀の存在だ。
 八尋は確かに気が弱く、引っ込み思案な面はあるけれど、それでも彼女はこうと決めたら、真っ直ぐに進む強い心を持っている。それは小さい頃から美紀と一緒にいて育んできたものだ。
 それほど美紀は、八尋の中で大きな存在なのである。
「――と、時間切れか。残念。純潔は奪えず仕舞いか。くっ」
「そんな心底残念がられると、本当になんと言うか、美紀ちゃんとの今後の付き合い方を改めないと思っちゃうんだけれど」
「より良い方向に?」
「より悪い方向にだよ」
「おかしいな。私の百瀬は気が弱くて、引っ込み思案な面もあるけれど、純粋で心優しい子のはずなのに。私に対して、それが反映されていない気がするんだけど」
「それだけ百瀬さんは、鞠尾さんに心を開いているってことですよ。お二人のやり取りを見ていて、私はそのように感じました」
「でも……おっぱいを枕にさせてくれなかったよ、クフラちゃん」
「心底がっかりしてる!? 本気だったんですか!?」
「私はいつでも本気よ!」
「凛々しい顔だ、カッコいい! でもやろうとしていることは、そうでもないですね」
「そう? まあ、それはこの際、横に置いといて。ほら、百瀬、クフラちゃん。そろそろ家を出る時間だよ」
 美紀に促されて二人が時計を見ると、確かに家を出る時間が近づいていた。
「本当ですね。さあさ、百瀬さん。そろそろ出かけるとしましょうか?」
「うん、そうだね。行こっか」
 三人は炬燵から出て、八尋とクフラは外出準備を済ませて玄関へ向かった。
 そして、
「そんじゃ、行っておいで」
「うん、行ってくるね」
「行ってきます」
 先に玄関へ来ていた美紀に見送られ、八尋とクフラは家を後にした。


「……それにしても百瀬さん」
「何かな、クフラちゃん?」
 八尋が素知らぬ顔でいるその横で、クフラはぐったりしていた。
 それは道中での色々なことが起因となっている。
「いつも、こんな感じなんですか?」
「えっと、何がかな?」
 そう聞かれたクフラは、ここへ辿り着くまでに痴漢、露出狂、覗き魔などとの遭遇を完全にスルーしている八尋を見て思う。
 気づいていないのなら、黙っていましょう。変に知って悪影響が出るのも考えものですし。と言うよりも、何故気づかないんですかね? いやいや、それ以前にこれ、完全に能力が悪影響及ぼしていますよ。今でこれですか? 今でこれなら完全覚醒したらどうなるんですかね、これは。
 なんて言う内心に湧き上がる想いを全て抑えて、
「いいえ、何でもありません」
 クフラは首を横に振って答えるだけに留めた。
 そんなことを考えているとは露も知らず、八尋はその返事に首を傾げるのだった。
「まあ、そんなことよりも百瀬さん。今更ですけれど、鞠尾さんの情報収集能力は半端ないですね。百瀬さんも鞠尾さんから聞くまで真田さんの家を知らなかったんですよね?」
 と、クフラは目の前に立つ高級マンションを見上げながら八尋に尋ねた。
「うん、知らなかった。相変わらず、美紀ちゃんのお友達ネットワークはすごいなって思うよ」
「お友達ネットワークですか……」
 昨日のことである。
 とある子の怪異譚が解決した後、八尋は綾人と連絡を取ったが、既に翌日、つまりバレンタインデーの予定が入っていた為、会う約束を取り付けることは出来なかった。
 それでもチョコを渡して気持ちを伝えたかった八尋に救いの手を差し出したのが、美紀である。
 彼女は八尋の電話が終わって結果を聞くや否や姿を消して間も無く、次に姿を見せると彼女は八尋に一枚の紙を渡した。
 そこには綾人の住むマンションまでの地図と、そこまでの交通手段等が書かれていた。
 そして彼女は、綾人が明日外出する時間までも口にしたのだった。
 それを綾人本人から聞いたわけではなく、けれどそれを知ることが出来た彼女曰く、友達が沢山いて、誰かしらが何かしらの情報を持っていると言うのだがしかし、それで全てに説明がつく訳が無い。
 何かある。クフラはそう興味が湧いたけれど、今は関係ないと気持ちを切り替えた。
「もうすぐ鞠尾さんが言っていた時間ですね。そして、そろそろ邪魔が入る頃合いです」
「また来るのかな? あの『天使』ちゃん」
「来ます。と言うよりも今、こちらへ向かって来ているのを感知しています。それでは百瀬さん。私は彼女の邪魔を邪魔してきます。一人になりますけど、心の準備は大丈夫ですか?」
「……うん、大丈夫。クフラちゃんも怪我しないように気をつけて。それと、ありがとう」
「いえいえ。百瀬さんの方こそ、頑張ってください。それでは」
 そう言って、クフラはここまで隠していた翼を広げ、どこからともなく取り出した弓を手にしっかりと持ち、空へと飛び立った。
 それを見送って間も無く、美紀が言っていた時間通りに、綾人がマンションの玄関に姿を現した。
「き、来た。真田先輩だ……」
 その姿を見た八尋は、一気に胸の高まりを覚えて、顔に熱を帯びていくのが分かった。
 チョコの入った手提げ袋を持つ手に力が入る。
 家を出るまで美紀と一緒にいて、先程までクフラと一緒にいて、確かに緊張は和らいでいたのに。
 それが嘘だったかのように体が硬直していく。呼吸が乱れていく。
「り、リラックス。リラックス」
 と、八尋はそれを和らげようと大きく深呼吸をした。一回、二回、三回と繰り返して、
「……よし」
 と、気持ちを引き締めた。
 それでも胸の高まりは無くならない。顔も真っ赤なままだ。足の震えも止まらない。恥ずかしさのあまり、ここから逃げたい気持ちが胸いっぱいに広がる。
 でも、逃げない。逃げないと決めて、ここへ来た。想いを伝えると決めて、ここへ来たんだ。
 その決意が、八尋の足を前へと踏み出させた。


「やはり来ましたね。『お邪魔天使』アネモネさん」
 クフラが羽ばたいて空に留まっていると、目の前に同じく純白の翼を羽ばたかせて一人の幼女が姿を現した。
 その幼女――アネモネは、愛らしい顔に不満の表情を浮かべて言う。
「誰が『おしゃま天使』よ!」
「いえ、『お邪魔天使』です」
「まあでも、仕方が無いわね。自分と同年代だと思っているこの私が、お子ちゃまな自分と違って大人の淑女に見えることに嫉妬心を抱いて『おしゃま天使』と言ってしまいたい気持ちがあっても、なんら不思議はないわ。大丈夫。貴方もそのうち、素敵な淑女になれるわよ」
「ありがとうございます。でも私が言ったのは『お邪魔天使』ですからね。まあこの際、『おしゃま天使』でもどちらでも構いませんけど」
 と、クフラが言っている隙にアネモネは地上で向かい合う綾人と八尋に向けて弓を射た。
 それとほぼ同時に、クフラもまた弓を射て、アネモネが放った矢を撃ち落とした。
「さすがね。不意打ちのつもりだったんだけど、あっさり撃ち落されたわ」
「全く不意打ちになってなかったです。それよりもアネモネさん。それは『鉛の矢』のつもりですか?」
 と、クフラはアネモネが持つ鉛で出来た矢を見て尋ねた。
 『鉛の矢』は『愛の神』クピドが持つ矢のひとつであり、その矢に射抜かれた者は恋を嫌悪するようになる。
 その矢をアネモネは再現しているのだろうが、彼女は『愛の神』クピドの属性を持つ『天使』ではない。故に、彼女に『鉛の矢』を再現した矢が扱えるはずがないのだ。
 けれど、彼女は笑みを浮かべて言う。
「ええ、そうよ。と言っても、普通の『鉛の矢』ではないけど。ふふふっ。分かるわ。貴方が驚くのも。だって、これはありえないことだものね。私が『鉛の矢』を扱うなんて。でも、そこは私の凄さかしら。本来伝わる『鉛の矢』の伝承を、どう自分にとって都合の良い解釈に置き換えるところから始めて、いえ、もっと言えば――」
「つまり、貴方でも扱える『鉛の矢』ってことですね」
「……そうだけど、そうなんだけど。折角なんだから聞きなさいよ。私がどうやって『鉛の矢』を使えるようになったのかって言うその辺りの血と汗と涙の話を」
「そんなことより、百瀬さんの邪魔をしないで下さい。アネモネさんだって、私の任務を知っていますよね?」
「全く私の血と汗と涙の話を聞く気がないのね。まあ、いいわ。ええ、知っているわ。知っていて、阻んでいるのよ」
 と、アネモネはクフラの質問に答えることにした。
「『理由を知っていて、何故阻むのか?』と言う顔をしているわね。いいわ、教えてあげる。まあ、それを聞いたところで、お子ちゃまの貴方が理解できるのかは分からないけれど。理由も知らずに狙われるのは嫌よね。だから教えてあげるわ」
「ああ、別に理由とかどうでもいいです。私は百瀬さんを守るだけですから」
 そう言って、クフラは再び手を動かして、アネモネを目掛けて弓を射た。
 それをアネモネは、かろやかに避け、どこか影を落とした顔で言う。
「この世に愛なんていらないからよ」
「『天使』が何を抜かしているんです」
 辛らつな言葉を受けてもアネモネは動じずに語り続ける。
「何故、私がそのような想いを抱くようになったのか。あれはそう、もう十年も前になるわ。私が七歳の時――」
「ちょっと待ってください」
 そこでクフラは手を挙げて、アネモネの話を止めた。
「十年前で七歳って……。今、十七歳なんですか? とてもそうは見えません。むしろ七歳相応の外見ですよ」
「そうね。だって私の外見は七歳のままだし。でも実際は、あそこにいる百瀬八尋と同じ十七歳よ」
 そう言って八尋を指差すアネモネの目は、どこか羨ましそうにも見えた。
 けれどクフラはそれを口にせず、アネモネの次の言葉を待った。
「そう、あれは凍えるような寒さに身を縮め、それを振りまく傍若無人な旅人が立ち去るのをただ静かに待った花の妖精が、再び笑みを浮かべて新たな旅人を迎えた――」
「あの、そういう余計な例え話は全部カットで簡潔にお願いします。まだお子ちゃまな私は、退屈で寝ちゃうかもしれないので。要は、春の話ですよね」
「……。そうよ。あれは私が七歳の春のこと。同い年の幼馴染の彼、レオニダスとの間にある出来事が起きたの。私はいつも彼と一緒だった。そんな彼は、いつも私のことを『まるで天使のように美しい』と言っていたわ」
「貴方、『天使』じゃないですか」
 そんなクフラの突っ込みを気にせず、アネモネの話は続く。
「そんな彼は、私が年を重ねて悪魔になることを恐れていたわ」
「悪魔?」
 つまり、アネモネが堕天して『堕天使』となることを恐れたのかと思ったクフラだったが、すぐに『年を重ねて』という言葉に疑問を覚えた。
 年を重ねるだけで堕天することは考えづらい。
 けれど、そんな心配をされるということは、長く生きれば生きるほど、そういうことが起きる可能性が増えることを危惧される程に、その頃からアネモネは堕天する要素を持ち合わせていたのか、等と考えを巡らせたクフラだったが、 
「彼曰く、12歳以上の女の子は悪魔だそうよ」
 その言葉で一瞬絶句する。
 けれど、すぐにそれを受け入れた。何故ならば、彼女は『恋のキューピッド』、愛の形は人それぞれが信条である。
「だから私が天使から悪魔にならないように、彼はある薬を作り出したの。それは飲んだ者の肉体年齢を固定する薬。つまり、不老不死の薬の一種ね」
「でもそれは――」
「そう。その薬は、禁忌に部類するもの。私は『天使』として、その薬を、その知識を、封印しなくてはいけなかったわ。でも私はレオニダスに恋する乙女でもあったの。揺れ動く私の心は、それでも彼との愛が確かなものになるのだったら、とそれを飲んだわ。例え、本当の意味で堕天しようとも。そして私の肉体は、時の流れから外れたわ。でもこれで彼との愛は確かなものになった」
「……」
「はずだったなのに!」
 そこでアネモネの声量が一気に上がり、クフラはビクッとした。
「彼ったら、趣味が変わったの! 『やっぱり年上のお姉さんの包容力って言ったら半端ないな! 例えば、おっぱいとか! ああっ、大いなる母性とは、かくも素晴らしきものだ!』って!」
「……」
「そう言って、彼は私から離れていったわ。何よ、大いなる母性って。男って、本当に馬鹿。それ以来、私は誰かに恋することは無くなったわ。それでも言い寄ってくる男は後を絶たなかった。私のことを『まるで天使のように美しい』と言って」
「だから貴方、『天使』じゃないですか」
 そんな再度の突っ込みも気にせず、アネモネは話を続けた。
「だから愛なんて、この世にいらないの! そんなものがあるから私は未だに七歳の姿のままだし、幼女趣味の男達に『アネモネたん、ハァハァ』とか言われて迫られるのよ! わかった? それが理由よ。百瀬八尋の恋が上手くいかなければ、彼女の力が増大すれば、恋なんて生まれなくなる。そうすれば、こんな想いもしなくてすむのよ!」

「つまり、八つ当たりですね」

「……!」
 クフラの言葉にアネモネの声が詰まった。そんなアネモネを見て、クフラは言う。
「愛は絶対不変ではありません。彼が他の誰かに心変わりすることだって、ありえます。吐露から想像するに、これまでさぞお辛い思いをされたのでしょう。口では愛なんていらないと仰っていますが、それでも恋に焦がれているのが伝わってきました。『恋のキューピッド』ととして、そんな貴方に救いの手を差し伸べたい気分です。まあ、とはいえ、実際に貴方を助けられるのは、私じゃないですけど。要は、その固定された時間の輪を抜け出して、年相応の恋をしたいってことですよね?」
 そんなクフラの問いかけに、
「……そうよ。私は元に戻って、年相応の恋がしたい」
 アネモネの本心が言葉になって姿を見せた。それを受けて、クフラは言う。
「どうします? 百瀬さんの邪魔をしないなら、その解決策を教えますよ」
「あるわけないじゃない、そんなの」
「あります。『天使』の名を賭けて、ここにそれを誓います」
 アネモネの否定をクフラは肯定で返し、そして『天使』の名を賭けた。
 『天使』が『天使』の名を賭けることは、命を賭けると言っているのと変わらない。
 それを聞いたアネモネは逡巡してみせたが、既に答えは決まっていた。
「……分かったわ。『天使』の名に賭けて、百瀬八尋の邪魔はしない。だから、その解決策とやらを教えなさい」
 アネモネも誓いを立てたことにより、両者の間で交渉が成立した。
 それを受けて、クフラは言う。
「今、あそこで百瀬さんと話している真田さんに、アネモネさんが手に入れてしまった不老不死の概念を破壊してもらうんです」
「どういうこと?」
「真田さんの左手には――」
 クフラはアネモネに綾人の左手に宿っている力のことを説明する。
 それを聞いていくうちにアネモネの顔は、驚愕に染まっていった。
「そんな、でも、それはありえないわ」
「けれど事実です。不思議に思いませんでしたか? 何故、私が『黄金の矢』を使わないのかって」
 『黄金の矢』とは『愛の神』クピドが持つ矢の一つであり、その矢に射抜かれた者は激しい愛情を持つ。
 そう。その矢を使えば八尋は綾人を手に入れることができる。何をするでもなく、何を思うでもなく、容易く手に入る。
 だからアネモネもクフラが『黄金の矢』を使わないことを不思議に思っていた。それを使えば一瞬で済むのに、と。
 けれど使わないなら、それはアネモネにとっての好機。だからアネモネは、そのことを頭の隅に追いやっていた。
「でも使わなかったわけではありません。百瀬さんから真田さんの事を聞いた後、百瀬さんには内緒で真田さんに『黄金の矢』を使ったんです。けれど、あの左手に『黄金の矢』は跡形も無く壊されました。その後、改めて真田さんを調査した上で知ることになったのが先程話した内容です」
「じゃあ、あの男に頼めば……」
「ええ。アネモネさんのそれは壊してもらえるはずです。だから今、百瀬さんのことを邪魔をして事を荒立てることはお勧めしません。まあ、誓いを交わしたので、その心配はしていませんけれど」
「……そう。分かったわ。約束通り、彼女の邪魔はしない。ここは一旦、退かせてもらうわ」
「ありがとうございます。ああっ、そうそう。真田さんにお願いする時は一声掛けて下さい。協力しますので」
「分かったわ。それじゃあ、またね」
「はい、またお会いしましょう」
 そう言って、アネモネはクフラに背を向けて、飛び去っていった。
 そのどこか嬉しそうな後姿を見送ったクフラは、一息ついて、地上にいる八尋に視線を向ける。
「さて。これでひとまず、邪魔をされる心配はなくなりましたね。無事に告白できることを祈っていますよ、百瀬さん」


 真田綾人は、八尋の好きな相手であると同時に、彼女にとって命の恩人でもあった。
 以前八尋は、とある不思議な事件に巻き込まれて命を落としかけた。それもまた彼女が持つ魅力が端を成す事件だったと言えるだろう。
 そして、そんな事件から八尋を救ってくれたのが美紀、そして綾人だった。
 美紀と綾人は以前からの知り合いらしく、その事件を解決する為に、何よりも八尋を救う為に、美紀が綾人を呼んだ。
 綾人は絶望の中にいた八尋の前に颯爽と現れ、彼女にとって解決不可能に思えたその事件を、あっさりと解決してみせた。
 その時からだろう。八尋が綾人に惹かれていったのは。
 それまで八尋がいた日常とは違う、彼女にとっての非日常に生きるその強さに。
 何より、そんな綾人がふとした瞬間に見せる今にも泣きそうな子供のような表情に。
 八尋の心は、惹かれていった。
 その想いは会う度に強くなっていき、それが好きだと言う気持ちだと気づくまで、そう時間は掛からなかった。
 でも、その想いを綾人に伝えようとは思わなかった。
 綾人には好きな人がいる。ずっと、その人のことを想っている。だから、これまで他の人に告白されても全て断ってきたのだと美紀が言っていたからだ。
 だったら自分が告白しても絶対に振られる。告白しても辛い思いを、悲しい思いをするだけ。
 なんて、八尋は思った。
 でも、だからと言って、その気持ちは、綾人を好きだって気持ちは、すぐに諦められるようなモノではなかった。
 諦めようとしても、かえって想いが募っていき、胸が苦しかった。告白しなくても、辛い思いを、悲しい思いを、胸に抱え込んでいき、それは今にも弾けそうな程膨らんでいった。
 そんな時である。『天使』だと、『恋のキューピッド』だと名乗る少女――クフラと出会ったのは。
 彼女と出会って、その直後に巻き込まれた怪異譚が、そんな八尋の考えを変えるきっかけをくれた。
 そして美紀が、前へと踏み出す勇気をくれた。
「真田先輩」
 だから今、八尋はここにいる。綾人の前に立っている。
 綾人に好きな人がいて、ずっとその人を想っていて、他の人からの告白を断り続けていても、
「これ、バレンタインチョコです。先輩のことを想いながら、一生懸命作りました」
 自分の想いを、好きだと言う気持ちを伝えないこととは関係ない。
 それが、告白しない理由にはならない。
 だから八尋は、有りっ丈の想いを込めて告白する。

「私、真田先輩のことが好きです。私と、お付き合いしてください」


 ようやく言えた。ようやく想いを伝えられた。それだけで満足。満足だ。
 なんてことはなかった。
 帰宅後。八尋の部屋で待っていた美紀を見るなり、八尋はそれまで我慢していた涙が堰を切ったように溢れだして止まらなかった。
 家の外まで聞こえるような大きな泣き声で、彼女は泣き続けた。
 百瀬八尋は、真田綾人に振られた。
 自分が振られることは分かっていた。そうなるだろうとは思っていた。
 でも、それでも、もしかしたら、なんて気持ちがなかったわけじゃない。
 その気持ちは確かにあって、好きだって気持ちが心いっぱいにあったからこそ、止め処ない涙が頬を流れる。流れて止まらない。
 そんな八尋の側に、美紀は、ずっといてくれた。
「もう大丈夫?」
「……うん。ありがとう、美紀ちゃん」
 泣き声が聞こえなくなって、しばらくしてから美紀は八尋に声を掛け、それに八尋は俯いていた顔を上げて、耳まで真っ赤になった顔を見せた。
「また美紀ちゃんの前で泣いちゃったね。なんだか恥ずかしいな」
「今更恥ずかしがられてもね。もう数え切れないくらい百瀬の泣き顔は見てるよ。だから気にすんなって」
「うん。ありがとう。おかげで、すっきり……うん、少しだけすっきりした」
「そう。なら、よかった」
 そう言って静かに笑みを交わす二人を見て、クフラも静かに笑みを浮かべる。
 正直に言えば、とは言え、二人へ正直に話さないけれど、クフラには今回の結果が見えていた。
 それは絶対の結果としてではなく、とても高い可能性の結果として、クフラには八尋が振られることは分かっていた。
 だから彼女は一番最初に『黄金の矢』を使ったのだ。結局それは失敗に終わり、結果も予想通りの結果になった。
 八尋の恋を成就させると言う彼女の役目は、失敗に終わったのだ。
 ひとまず。そう、ひとまずはだ。
 何も恋は、彼女の恋はここで全てが終わったわけではない。これからも彼女は誰かに恋をする。
 だからアネモネの邪魔を防いだ。
 八尋が綾人に告白したことは、彼女が流した涙は、全くの無駄だと思わない。
 それらの経験は、必ず生きるとクフラは信じている。思い出の一つとなって、彼女の糧になると信じている。
 けれど今は、
「さて。時間も時間で、その上、あれだけ泣いたんだし、お腹も空いたでしょ。ここは一つ、私が何か作ってあげるとしますか」
「それじゃあ、私も手伝うね」
「では私もお手伝いさせてください」
「そう? じゃあ、三人で美味しい料理を作ろうか」
「うん」
 親友との楽しい時間の中で、ゆっくりと気持ちを整理してほしい。
 と、クフラは、楽しそうに話す二人の後を追いかけたのだった。
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