『真っ赤な瞳の少女』
少女はベッドの上で病室から見える外の世界を眺めていた。
部屋にある時計の秒針が音をたてて進む度に刻一刻と余命が減っていくのを感じる。
生まれてから続く病院での生活。病院は彼女にとって世界の全てだった。
窓の外に広がる世界。それは目に映るだけの別世界。
彼女は思った。
私はなぜここにいるのだろう、と。
父親は少女が生まれた日に亡くなった。この病院に向かう最中に事故にあったそうだ。
それから母親は少女のために働いた。
最低限の生活費を除き、収入のほとんどは少女の入院費に消えていった。
だけど、少女の病は良くならない。ただ、日々は刻一刻と過ぎていた。
そして、ある日の夕方。
世界が茜色に染まった時刻、その世界から黒衣を纏った少女がやってきた。
「こんばんは」
黒衣の少女はロングスカートを少し揺らしながら部屋の中に静かに降りた。
「こんばんは」
少女は不思議に思うことなく、黒衣の少女を迎えた。
「ねえ、私はなぜここにいるの?」
「あなたはそこにいる必要があるからよ」
少女の唐突な質問に黒衣の少女は考える間も置かずに答えた。
「それはなぜ?」
「あなたが娘の苦しみを、娘はあなたの苦しみを知るために」
その黒衣の少女の返答に首を傾げた少女は何かを思い出したように頷いた。
「……ああっ、そうか。そういうことだったわね」
少女と少女の母親は死んだ。16年前の16時42分に。
少女は嘆いた、母親に。
母親は嘆いた、少女に。
私の苦しみを知らないで、と。
「ならば、味わってみればと私は言った」
「そして、私と娘はその提案を受け入れた」
「そして今日が2人の死んだ日。娘は心臓麻痺で、あなたは過労による事故で」
時計は16時35分を指していた。
「どう? 娘として過ごした16年の月日は?」
「苦しかったわ、色々と。私は狭い世界の中、この病院の中しか知らない。この病院の側には小学校や高校があるのを知っている? 窓からその生徒たちの登下校の姿が見えるのよ。友達と手を取り合って、お互いに笑って、通っている姿を見ると悲しくなるわ。なぜ、私はこの狭い世界の中で退屈な時間を過ごしているのだろうと。見て、ベッド脇の本の山を。たくさんの本を読んできたわ。本はいいわね、私を色んな世界に連れて行ってくれるわ。でも、それもずっとは続かない。必ずこの世界へと戻ってくる。そして、思うの。ここはどこ? なぜ私はこの狭い世界の中にいるのかって。だから、母さんの顔を見てムカつくの。なぜ私にこんな枷を背負わせたのかと。なぜ、その疲れきった顔を見なくちゃいけないのかと。腹が立って本を投げつけたわ。だけど、文句を言わず、その本を拾うのよ。だから、またぶつけてやったわ。……この病気も訳が分からない。医者に聞いてもハッキリとした答えをくれない。だから、かえって滅入ってしまう。なら、私はなぜここにいるのって。病気を治すためでしょ? なのに、なんで私の病気がわからないのかって。だけど、突然のように体に痛みがやってくるの。誰かが死ぬのは怖いって言っていたけど、それは余命何ヶ月とか何年とか言われる人じゃないか、と思うのよ。突然やってきた痛みに苦しんでいる私はそんなことを思っている余裕なんてないわ。そうね、余裕がある人が死に対する恐怖を抱くのでしょうね。私にはそれがなかった。ただその苦しみから解放してほしかった。つらい、つらい、つらい。そういった感情が体を支配していったわ。その時、私が思ったのは、お願い、眠らせて、この苦しみから逃れさせて、といった願いだった。だから、気がついた時、私はホッとしたわ。私がいる場所はどこであれ、あの苦しみから解放されたのだから。……でも、また負の感情が押し寄せてくる。また、いずれあの苦しみがやってくるのだと――」
少女となった母親は少女として過ごした16年間で積もった思いを言葉として出していった。黒衣の少女はその言葉をただ黙って聞いていた。
16時40分。少女の言葉はやんだ。
「どう? 娘の気持ちが少しはわかった?」
「ええ。母親だった時の気持ちを忘れてしまいそうなくらい」
そう言って、少女は笑った。
「ありがとう」
「いいえ、気にすることはないわ」
「いいえ、ありがとう。さようなら」
16時42分。少女となった母親は心臓麻痺で死んだ。
「……さようなら」
黒衣の少女は眼下の少女をその真っ赤な瞳から一筋の涙を流し、見つめた。
女性は冷たいコンクリートの上で仰向けに倒れ、空を見ていた。
仰ぐ空には夕陽。
世界中を茜色に染め上げ、彼女の周りの血の色も同じく茜色に染まっていた。
周りは彼女を見ては騒がしく、ざわざわ、ざわざわ、と耳障り。
しかし、彼女には届いていない。届いくのは黒衣の少女の声だけ。
「こんばんは」
夕陽の光を遮るように黒衣の少女はしゃがんで彼女へと声をかけた。
「……こんばんは。可愛いお嬢さん。なんでかしら、あなたの顔を見るまで私が母さんになっていることを忘れていたわ」
彼女は少し可笑しそうに笑ってみせる。
「どう? 母親として過ごした16年は?」
「そうね。隣の芝生は青く見えるということわざがあるけど、その通りだったわ。結局、母さんとして過ごしたこの世界も私が私として過ごした世界もたいして変わらなかった。……いえ、違うわね。その世界を広く感じるのか、狭く感じるのか、幸せに感じるのか、不幸に感じるのかは私がどう思うかで変わってくる、のかしらね。ええ、そうだわ。きっと、そうね。私は18歳で私を、今は母さんが私か、娘を産んで、でも、その日に病院へと向かう父さんは事故で他界。もともと、この結婚も娘を産むことも反対していた向こうの親は責任の全てを私にぶつけてきたわ。悪い時には悪いことが重なるのかしら。そういった循環でもあるのかしらね。私の両親も事故で他界。頼るアテもない。しかも、娘は原因不明の病。もう訳が分からなかったわ。でも、娘には何の責任もない。だから、娘の病気が治るために、娘が幸せだと感じてくれるために頑張ったわ。慣れない仕事もこなしていって、苦労はあったけど、頑張れた。娘のために、娘のために、って。でも、お金は娘の入院費に消えていく。大きくなっていく娘からは笑顔がだんだんと減っていった。それを見て、私は思うの。ああっ、娘に幸せを与えられていない、と。だからね、娘は私を見て、怒りをぶつけてきたのは。だけど、私は謝ることしかできない。ごめんなさい。苦しみを与えてごめんなさい、って。でも、それを口にしたら、娘はもっと怒るでしょうね。ええ、私は私だったからわかるわ。あの時、謝罪の言葉なんかを言ったりしたら、もっと怒っていたわ。別に母さんが悪いわけじゃないのはわかっていたから。責めたって仕方がないのはわかっていたんですもの。この体にある枷を負わせたのはあなたなのよ、なんて口にしてもそれは私の中で渦巻いていた訳も分からないモノをぶちまける為なんだから。だけど、私はつらかった。寄り添ってくれるあのヒトはもういない。疲労は日に日に抜けることがなくなっていった。だから、だから、一言欲しかった。あのヒトとの間にできた娘から励ましの言葉が。……でも、あの時の私にそれが言えなかった。そんな自分以外のヒトのことなんて考えていられなかった。でも、今の私なら言える。頑張って、母さん。だけど、無理はしないで。それと……ありがとう、母さんって」
母親となった少女は母親として過ごした16年間で積もった思いを言葉として出していった。黒衣の少女はその言葉をただ黙って聞いていた。
16時40分。少女の言葉はやんだ。
「どう? 母親の気持ちが少しはわかった?」
「ええ。私が娘だった時の気持ちを忘れてしまいそうなくらい」
そう言って、彼女は笑った。
「ありがとう」
「いいえ、気にすることはないわ」
「いいえ、ありがとう。さようなら。可愛いお嬢さん」
16時42分。母親となった少女は過労による事故で死んだ。
「……さようなら」
黒衣の少女は眼下の母親をその真っ赤な瞳で見つめた。瞳には大粒の涙を溜めて。
茜色に染まる空はだんだん、色を黒に塗り替えていく。
そんな空をビルの上で黒衣の少女は真っ赤な瞳でぼうっと眺めていた。
「どうだった?」
澄んだ声と共に黒衣を纏った同じ顔の少女が降りてきた。
「……つらかった。でも、ありがとう。おかげで2人の最期を見届けることができたよ」
瞳からは涙を流し、しかし、笑顔で答える黒衣の少女は姿を青年へと変えていった。
「そう」
「……あの日。娘が生まれたあの日。僕は浮かれていた。その時の僕は何もかもが上手くいっていた。そして、娘が生まれたとの報せを受けて、僕は飛ぶように病院へと急いだ。本当に幸せだった。あの事故に遭うまでは……。それから僕はずっと見ていた。2人がつらい時も、お互いに理解できず、苦しんでいる時でさえ僕は声をかけることができず、いや、声をかけても届かず、優しく抱きしめることもできず、ただ見ていることしかできなかった。あの日、僕が調子に乗って、浮かれていなければ、あそこで事故に遭い、死ぬこともなかったのに。彼女につらい思いをさせずにすんだのに。娘につらい思いをさせずにすんだのに。そう、悔やんだ。そんな時、あなたは僕の願いを聞いてくれた。2人がお互いの気持ちに少しでも触れることができるように。そして、その役目を僕に任せてくれた。本当に感謝しています。ありがとう」
青年は黒衣の少女へ、深く、深く、頭を下げた。その感謝を態度で表すように。
「気にしなくていいわ」
「本当にありがとう」
最期に感謝の言葉を残し、青年の姿は薄れ、吹いた風と共に消えていった。
「本当に、気にしなくていいのに」
黒衣の少女は空を仰いだ。その瞳から涙が溢れないように。
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