『クロと十五夜』

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 夕刻、空にいる夕陽は世界を茜色に染め上げていった。
 街を、車を、道路を、そこに伏せた母親と、その血の色さえも。
 その世界を、その記憶を胸中に抱いて1つの影、クロが街中を走り抜けていく。
 そこに、おとなしく寡黙であるいつものクロを見ることはできない。
 走るその姿は猫人族の遠い祖先、猫又の狂気が宿ったようにも見え、クロを目にした人々は避けるように道を開けていった。
 その開いた道をクロは駆け抜けていく。一歩、一歩、踏み出すごとに加速して。そこに思いの丈を込め、力強く蹴り飛ばし、だんだん速く、飛ぶように。
 自分の中にあった激情に驚く暇も無く、ただ目指す一点を捉えて。
 クロが目指すのは先を走る1台の高級車。そして対象は、その中に乗っている。
 その姿を目にした時、記憶は溢れ出す様に頭の中を暴れ回り、後先考えずに追いかけていた。
 母を殺した男の姿を。


 車を追う最中、脳裏を暴れながら駆け巡って蘇るのは最期の光景。
 それは茜色に染まった世界で道路に伏せて動かなくなった母の姿と、それを見下ろす男の姿。
 男は車に乗って走り去り、クロは寝たままの母に近寄って行き、揺さぶった。お腹が空いたよ、と声をかけながら。
 幼いクロはその時、まだわかっていなかった。母は寝ているのではなく、すでに事切れて動かなくなっていたことを。“死”という概念を。
 だから揺さぶり続けた。お腹が空いた、と。
 けれど目を覚まさない母を見て、音が無くなったような静けさの中にいて、クロの中に今までにない気持ち、不安が広がっていった。
 それが揺さぶる腕に力を込めさせ、小さかった声をだんだんと大きくさせていく。
 それでも不安は消えることはなく、その不安に追い討ちをかけるような煩い音が近づいてくるのを感じてクロは顔を上げた。
 双眸をそちらへ向けると、すでに陽が落ちて闇に包まれた世界の中を幾つもの赤い光が近寄ってくるのがわかる。
 その煩く喚き散らしながら近寄ってくるモノたちに恐怖を抱いたクロは助けを求めるように母へと抱きつく。
 しかし、そこには今まで安心を与えてくれた温かさはなく、ただ冷たい感触を肌に感じるだけだった。
 それでも母親に抱きついてクロはおかあさん、と助けを求め続ける。それが決して届かないだろう、と感じつつも認めずに。
 そんなクロの救いを求める声を掻き消す煩い音はクロを逃がさないように、母親を辺りから隠すように取り囲んで止まっていった。
 赤い光の正体、赤色警光灯を付けた車内から出てきた制服に身を包んだ男たちは、素早く周囲からその場を隔離して進入できないようにテープを張り巡らせていく。
 そして、その中の数名がクロに近寄り、母親に抱きつくクロの体を掴んで母親から強引に引き離した。
 投げ捨てられるように地面を転がったクロは体に走った痛みで顔を歪ませながらも、毛布を被せられて車へ運ばれていった母親を求めて走り寄っていく。
 しかし、走り出した車へ追いつく前にクロは見上げる程大きな男に掴まれて取り押さえられる。
 それでもクロは止まらずにおかあさん、と母を呼び続け、取り押さえる腕に噛みつき、緩んだ隙に腕の中から抜け出す。
 そしてクロを再び捕まえようと襲い掛かってくる男達の隙間を縫うように素早く駆け抜けて母を乗せた車を追う。
 けれど、すでに母を乗せた車の姿はなく、
「……おかあさん」
 呼びかけに応える声はどこにもなくなっていた。
 その時の想いを再び抱いて、クロは車を追って疾風の如く駆ける。


 陽は落ちて辺りは街灯で照らされる中、追跡劇は境を越えて王都第1特区まで続いていた。
 クロは胸中であと少し、と呟く。
 地の利を生かしながら徐々に、そしてようやく手の届く位置まで追いつくことができた。
 けれど、その思考を遮るように得体の知れない悪寒を覚える。
 何かがおかしい、と。
 先ほどまで追うことにとらわれ、車しか見えずにいたクロは辺りの異変に気がつく。
 王都は日本の首都であり、王都圏の人口は世界各地の大都市圏よりも多く、世界最大の都市を形成している。
 にも拘らず、王都に入ってからクロは追う車以外に車道を走るモノを見ていない。そして誰かとすれ違った記憶すらなかった。
 まだそれ程遅い時間ではないのに、この不気味なほどの静けさはなんだろう、と車から目を離さない上でその事に思考が割かれていく。
 と、そんな思考の中に意識を置いていると不意に前を走る車が止まった。
 それを見て不信感を拭い去り、好機と見てクロは自身のスピードを上げ、車へ一気に近寄る。
 ここから先を考えていなかったクロは感情に任せたまま、仇の男を目掛けて窓ガラスごと蹴り飛ばす勢いで飛び蹴りを放った。
 だが男の壁となるはずのドアが開き、足先が入った所で勢いよくドアが閉まってクロの足を挟む。
「……っう!?」
 そして中から突き出された拳を避けようと体を反り、バランスを崩したクロは受身を取れずに地面へ落ちて背中を強打する。
 しかし悶える暇は無かった。苦痛に細めた視界を埋めるように靴の裏が顔目掛けて落とされる。
 それに髪を僅かにもっていかれながらも何とか避け、後転してから立ち上がって構えた。
 上げた双眸の先、そこに立っているのは眼鏡をかけた少年だった。
 歳はクロより2歳くらい上だろうか、その少年はドアを閉じて運転手に先を促す。
 クロはそれを止めようと前へ直進するが横から回り込んできた少年に踏み込んだ足をその上から強く踏まれ、勢いの止まらないクロは前につんのめった。
 その前に出たクロの顎は少年の捻りを入れた掌底で打ち抜かれ、一瞬の浮遊を感じた後、視界が揺らいで膝から落ちる。
 けれど少年はそれを許さず、首の後ろに腕を回してクロの体を受け止めると、そこから鳩尾に膝蹴りを入れた。
「ぁ……が、はっ!?」
 受けた衝撃で一瞬意識は飛び、クロの全身から力は消え、今度こそ沈むように体が崩れ落ちる。
 その最中、クロは少年の肩向こう、揺れる視界に走り出した車を見て倒れまいと前へ出ようとした。
 しかし踏み出そうとする意思に体はついてこない。そのまま、地面に倒れてしまう。
「……ま、って」
 それでもクロはあきらめず、目に入る車へ向けて声で止めようとするもそれが叶うはずもなく、車は闇に消えていく。
 そして、追う視界もまた暗闇に染まていった。


 視界を覆っていた暗闇は晴れていき、クロは目を覚ました。
 目に入る白い天井、漂う独特の雰囲気から病院と気がつき、ようやく自分がベッドに寝ていることを知る。
 頭の中は靄がかかったようでぼうっとする。その中で疑問が浮かんだ。
 道路で気を失ったはずなのに、どうしてここで目を覚ましたのだろう。
 その釈然としない疑問とまだぼうっとする頭のせいか、夢の中にいるようだった。
 部屋は暗く、差し込む月明かりが夜であることを教えてくれる。
 あれからどれくらい経ったのだろうか、と時計を探すために部屋の中を見回すと、
「気分は、どうだ?」
 先ほどの少年がベッド脇に座っていた。
 それに驚いたクロは距離をとるために体を動かそうとしたが動いてくれない。
 その様子を見て、少年は言う。
「まだ無理をせず、安静にしていることだ。……いや。それは、俺の言える言葉ではないな」
 苦笑を交えた言葉は辺りの静けさに混ざって消えていく。
 クロは動くのをやめ、そのどこか苦しそうな雰囲気を纏う少年を黙って見つめた。
 そしてその僅かな沈黙を挟み、少年は瞳を真っ直ぐに向けて謝罪の言葉を述べる。
「すまない。君を傷つけて」
 短い。けれど、そこに申し訳なさを十二分に込めた言葉を。
 そこから、交える瞳から伝わったてきたのは偽りではない本心からの謝罪。
 その姿にクロは自分を重ねて映した。またたびに酔って多くの人を傷つけてしまったことに苦しんだ自分の姿を。
 きっと、この少年にも同じように事情があるのかもしれない。だから苦しんでいるように映ったのかもしれない。
 だったら、だったら許そう。あの時、ボスが許してくれたように、その言葉で苦しんだ心を救ってくれたように。
 今度は自分が、今にも泣き出しそうに見える、この少年を許そう。
 クロはその気持ちを首肯で答えた。その罪を許す、と。
「……ありがとう。明日からしばらく臨床検査のため、このまま入院生活に入ってもらうけれど費用はこちらが持つ。君の保護者である児嶋菜乃香にも連絡済みだ。こちらの手配した車で向かっている。それから――」
 少年は、これからのことを話していく。クロはその様子を、その顔を見つめながら考えた。
 なんでこの少年は邪魔をしてきたのかな? ……聞きたい。なぜ、なんで、と疑問をぶつけて。けど、聞けない。聞いたら、この少年は自らの言葉で傷つきそうだから。 
 なんで菜乃香さんの名前を知っているのかな? 名乗っていないのに。きっと菜乃香さんは心配しているだろうな。それに、ボス達も……。
 それから、それから――。
 クロの中を色々な想いが巡っていく。どれから聞けばいいか、考えて、考えて、
「……あの人は、どこにいるの?」
 少年の話を遮り、自然と零れた言葉が少年へと問いかける。
 けれど少年はそれに答えることはできない、と申し訳なさそうに話を続けていく。
 それでもクロは聞き続ける。少年が答えることはできない、と繰り返しても。
 そして、その繰り返しを何度繰り返したことだろうか。
 根負けした少年は繰り返していた言葉を止めて、クロに問う。
「そんなに憎いか、あの男が? ここまで追いかけ、殺そうとするほどに」
「……殺す?」
 けれど、返ってきた反応は乏しかった。少年の問いが的を射ていないかのように。
 少年はクロの反応を見て、しばし自分の中で考えを巡らす間を置いてから再びクロに尋ねた。
「確認していいか? 君は幼少期に母親を殺した男が罪を揉み消し、今ものうのうと暮らしていることが許せずに自ら殺そうと今回の計画を企てたわけじゃないのか?」
 クロは少年の問いに、首を横に振ってそれが違う事を示す。
 その答えを聞き、クロの様子から嘘ではないと判断した少年は情報提供者の顔を思い浮かべて胸中で毒を吐く。
 そして思う。ならなぜ、この少女は追ってきたのかと。

「謝って、ほしかった」

 クロは少年の疑問に視線を交えて答える。
「おかあさん、のこと……あまり覚えていない、けど。今、菜乃香さんがいて、パトママがいて、シロちゃんがいて、ボスがいて。みんな、私を家族だって、言ってくれて――」
 夢とも現ともわからない狭間、まどろみの中でクロは言葉を連ねていく。
 母親を殺した男の顔を見た時から不意に溢れていった数々の想い。それを言葉に変えて。
 けれど、言葉はまとまらない。溢れる量が多くてクロの中で処理しきれずに吐き出される。
 だから言葉はふらふらと、ふらふら彷徨い歩いていく。
 それでも、その拙い言葉で構わずにクロが話し続けているのは聞き手である少年が黙って耳を傾けているからだろう。
 クロの双眸は少年のどこか寂しげで、それでも優しい瞳に吸寄せられて放れない、放せないでいた。
 その瞳を、顔を見つめながら不思議な少年、とクロは思う。
 対峙した時はあれほどの敵意を発していた少年が、今は黙って優しい瞳を向けているという落差に惹かれながら。
 言葉はたどたどしく、それでもクロは自分の想いを形作って少年へと語りかけていく。
「そんな、みんなの中にいられるのが楽しくって……うん、幸せなんだと思う。だから、あの人を見た時に思ったの。謝ってほしいって。そんな、家族でいられた時間をおかあさんから、私から奪ったことを。きちんと、ごめんなさいって……悪いことをしたら、ごめんなさいって……」
 伝えるべき言葉は伝えたというようにクロの瞼は下がり、静かな寝息が病室内へと広がっていく。
 少年は託された言葉を自分の中で反芻して確かに受け取った、と起こさぬように呟いた。
 そして部屋にはクロが1人、優しい月明かりの中で夢へと赴く。


 少年は足音無く、病棟内の廊下を歩く。まるでそこには誰もいないように、寝ている人を起こさないような気遣いを見せながら。
 と、その気遣いを無駄にする大きな足音、廊下を走る音が少年の向かう先から木霊する。
「ボス、早く! こっちッスよ、クロちゃんの病室は!」
「違うぞ、シロ! こっちだ、こっち!」
「橙ちゃん、シロちゃん! 2人とも廊下を走っちゃダメよ、それに皆さん寝ているでしょうから静かに!」
「パトもよ。3人とも落ち着いて。クロの病室はこっちだから。ああ、だから走っちゃダメだって!」
 少年は急ぎ足で病室へ向かう4人とすれ違って歩いていく。そこに、その姿にクロを想う家族の姿を見ながら。
 彼女達の心配する顔が少年の心に痛みを与える。
 けれど、それは仕方がない。仕方がない自身の罪として、少年はそれを胸に抱いて病院を出た。
 そして携帯電話を取り出す。と、まるでタイミングを計ったかのように非通知表示で電話が鳴る。
「……情報が間違っていたぞ」
 開口一番、少年は静かな怒りを電話の向こうにいる人物へとぶつけた。
『あっれ、おっかしいなぁ? 母親を殺された、その事故は揉み消されたイコール母親の敵討ちなんだぜ、ゴルァ! と思ったんだけどなぁ。でもまあ、いいじゃん。理由なんて。襲ってきた事実は変わらないんだから迎撃されても仕方ないよね。任務中に関わってくる火の粉は払わないと。襲撃の罪を問われず、生きていただけでも御の字だと思ってもらわないと、ねぇ?』
「俺に同意を求めるな」
『こわっ。あれ、もしかして……怒ってる? 声、怖いんですけど。なんだよぅ、綾人ちゃんがお願いって頼むから病院の手配やら何やらしてやったのにぃ。ひーどーいー。お姉さん、泣いちゃうよ?』
「泣け」
『ひどっ。綾人ちゃん、冷たすぎ。なんだよぅ、クロちゃんには良い顔して私にはその仕打ちかよぅ。もっと平等に扱ってよ、平等にさ。ああ、でも無理か。あれでしょ、可愛い子猫ちゃんに胸キュンハートラブ的な感じになっちゃったんでしょ? わかる、それ。クロちゃん、見た感じ可愛いいもんね。でもお姉さんはどうかと思う。やっぱり、種族間を越えるとなると……いや、ありか。そうよね、愛に種族間の壁なんて存在しないものね。頑張って綾人ちゃん。お姉さんは応援しちゃうぜ!』
「なんでそうなる。思っていないよ、そんなこと」
『そっか。そう、だよねぇ。あるとしたら同情に近いかも。同じく母親を想う子供としては』
「それよりも、あの男の方はどうなっている? “あれ”は現れたのか?」
『もう、話題を変えなくてもいいじゃない。そんなに同情するなら、あのクロちゃんを苦しみから解き放ってあげれば? 綾人ちゃんが自分のお母さんにしてあげたように――』
「やめろ」
『おっと、冷たい声。お姉さん、ドキッとしちゃった。さ、冗談はこれぐらいにして綾人ちゃんはすぐに戻ってきてね。じゃ、ばっははーい』
 そこで通信は切られ、相手の声は無くなった。
 けれど相手の言葉は無くならない。その言葉を受けて蘇った記憶が少年の、真田綾人の心に痛みを走らせた。
 決して忘れていた記憶ではない。
 しかし言葉に反応した記憶の扉は開き、それをより鮮明な姿となって綾人の脳裏に映す。
 それでも綾人は歩き出した。
 戻るべき場所へ一歩、また一歩と踏み出して。心に痛みを抱えながらも止まらずに。
 空に浮かぶ月は円を描き、世界の形を明るく照らす。
 それでも光の届かない世界はある。
 その世界、闇に包まれたその世界へ綾人は真っ直ぐに前を見つめて歩を進めていく。
 包まれた闇の奥は一寸先すら見えない。けれど真田綾人は臆せずに進んでいく。
 そして、深い闇へと消えていった。
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