『永遠の回想』

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 明日は肉料理が食べたい。特に牛肉の料理が。
 唐突だが、ふとそんなことが頭をよぎった。すでにベッドへ横たわり、後は意識が眠りに就くのを待つだけだというのに、なんでまた明日の食事に出るメニューの希望を思わねばならないのだろうか。
 きっと最近、魚料理がメインだったせいに違いない。それと部屋に戻る前、トワに明日起こしてもらうことをお願いした時に、明日の夕食は何がいいか聞かれたからだ。ああっもう、その時は何も浮かばなかったのに、今さら浮かんだよ。この時間差はなんなんだ、まったく。もう寝ているだろうから、明日の朝にでも頼もう。
 そういえば、牛肉で思い出したけど、先日のニュースで我が国と貿易をしている国が体細胞クローン牛の出荷を承認したとかしないとか。きっとこっちにも流れてくるんだろうけど、以前、我が国でその国から体細胞クローン牛が輸入された場合、食べるかどうかのアンケートが行われて、8048人中81%が食べないと答えていたな。
 そんな状態で、販売されても売れないだろうに。人はそう簡単に新しい技術になじめない保守的な面を持ち合わせたりするから、当然と言えば、当然だろうけど。
 ちなみにクローンとは、かつて『小枝』を指す言葉として使われていた。でも、その意味での使用は薄れていき、現在では動物の生命操作――『遺伝的に同一である個体や細胞の集合』を指す言葉として使われている。
 クローンの作り方は、簡単に言うとこうだ。
 クローンを作出したい細胞であるドナー細胞を用意し、未受精卵から核を除いた徐核卵子であるレシピエント細胞を別に用意して、ドナー細胞をレシピエント細胞の透明帯と細胞質の隙間に核移植。そして移植後、電気的細胞融合させると同時に細胞分裂を誘起させる。それから約1週間培養後、仮親の子宮へ移植、受胎させて、はい、クローン誕生。
 ちなみにドナー細胞に受精後発生初期の胚の細胞を用いる受精卵クローン技術と皮膚や筋肉などの体細胞を用いる体細胞クローン技術の2種類ある。
 さて、この2つの違いは何か。
 それは兄弟とのクローンか、親とのクローンか、ということだろうか。兄弟はともかく、親というのはおかしな話だけど、ここでは親と言うことにしよう。
 そして、失礼ながら一卵性双生児を例に出そう。動物は原生動物など一部のものを除き、通常の生殖方法をとる限り全て有性生殖となる。だから、動物が自然の状態でクローンが生まれることはない。
 しかし、例外がある。それが一卵性双生児、双子である。あと、三つ子とか。受精卵クローン技術はこの一卵性双生児を人工的に生み出す技術だ。使われた核はあくまでも受精卵であり、成長するまでどうなるかわからない。そこは通常出産で生まれてくる人間と変わらないだろう。そういった考えで、受精卵クローンで生まれた受精卵クローン牛は一般市場で流通している。といっても現段階では制限があって、年間で20頭から40頭と決まっている。昨年度の場合は、流通したのが38頭だったはず。これに対し、流通した牛の全体数は124万頭で、受精卵クローン牛は全体の0.003%とまだまだ少ない。
 だけど、これは受精卵クローンでの話で、体細胞クローンとなると話が変わってくる。
 さて、受精卵クローン牛は現在の繁殖技術の延長上と考えられ、市場にも流通しているけど、体細胞クローン牛は一般市場への流通許可が出ていない。
 体細胞クローンで生まれた牛についてはクローン牛生産物性状調査の結果等から安全性に問題ないとされている。しかし、体細胞クローン技術自体がまだ試験研究段階であり、不確定な要素が大きい。データが足りないのだ、データが。
 そういえば、以前飼っていた猫が亡くなった寂しさを埋めるために体細胞クローン猫を生み、それを販売しようとした企業があったな。設立して数年のうちに倒産したけど。
 理由は体細胞クローン技術が事業とするまで確立されていなかったから。当時、購入希望者が生まれた猫を見て「毛の模様が違う」とクレームをつけた。飼っていた猫の体細胞を使ったのに、だ。
 原因はエピジェネティックな機構が働いていたからだと考えられる。エピジェネティックとは、DNAや遺伝子に頼らない個体設計の仕組みのことだ。少し前までは、DNAや遺伝子が生命の設計図の全てだと考えられていた。しかし、それだけではどうしても説明のつかない現象がたくさんあり、遺伝子そのものではなく、遺伝子の発現を制御することによって間接的に個体発生に影響を及ぼすしくみがあることがわかってきた。具体的には短鎖RNAによる発現抑制機構などが挙げられているけど、その全貌については未だによくわかっていない。
 このクローン猫には『クロマチン移植』という方法が使われている。クロマチンとは、染色体のことだ。細胞分裂のために染色体が核の中で集まって見えてくる時に体細胞を未受精卵に移植するとスムーズに細胞分裂が行われ、流産や死産がしにくいクローン胚が作製できることがわかったとされている。
 最初に生まれた体細胞クローンの羊を作った当時の体細胞の移植法は、細胞分裂が休止している時に体細胞を未受精卵に移植するというものだった。それに比べるとクロマチン移植は妊娠する割合が10倍程度に高まったそうだ。以前は遺伝子がうまく働いておらず、正常に見えても、異常を表すなどのケースがあったが、これもクロマチン移植で多くの正常なクローンが得られるようになったといわれている。が。それでも問題は多数あった、というわけで企業は潰れた。まあでも、クローン技術が少しずつ進歩していっているのがわかる。
 さて、そんなクローン技術を用いて畜産分野で最も研究が進んでいるのが牛だ。
 理由は簡単。1番コマーシャルベースが良いからだ。
 乳牛の場合、高能力乳牛であれば1頭の販売価格が数百万から数千万円の単位であり、我が国だと高血統牛の生産が1頭辺り100万円単位の取引となっている。
 また絶滅危惧種の動物に利用することが考えられるけど、経済活動としては非常に小さく、他の食用の豚や鶏などにクローン技術を使うコストを回収するだけの販売価格では売れないため、商売としてのクローン技術は畜産の世界ではまず牛からだと考えられた。
 ちなみに他に巨額のお金が動く可能性としては、競走馬があるけど、競走馬は人工授精の出産すら認められていないので、商売ができない。ああっでも、ラバだったかな? 受精卵クローンを行い、公式なラバレースに同じドナー細胞から生まれたラバを出走させていたな。競走馬はだめだけど、ラバならいいんだなと思った気がする。
 まあ、それはいいとして牛肉だ。牛肉の輸入が自由化されているから、外国から低価格で肉が輸入されるようになり、このような状況に対処するためにも、高血統和牛を安価で安定供給して、畜産の国際競争力を上げなくちゃならない。だから、クローン牛に期待されている。ただ、その体細胞クローン牛の最も新しいデータで死産15%、生後直死17%で合計32%だ。ちなみに一般牛の死産等の発生率は5.3%。一般牛の場合、百数十万頭に対して5.3%であり、それに対して体細胞クローン牛は511頭に対しての32%だ。コマーシャルベースが良いとは言ったけど、現状では牛でさえ採算が取れる状態ではない。それに死産等の発生率がなぜ高いのか、原因が解明されていないし、発生異常が起きている原因もわかっていない状態だ。
 ただ、発生異常の原因に関しては、核の初期化が不完全であることが可能性として考えられる。もしそうなら、対策としては適した細胞、初期化因子などの探索を向上させ、初期化の強化を図るか、遺伝子発現の解析をして指標の確立をして選別を強化するなどが挙げられるのかな。
 ……寝ようと思っていたのに、つい頭を巡らせてしまった。これも牛肉がいけないんだ、牛肉が。まあでも、仕様がない。暗い部屋の中、眼を瞑り、眠りへと意識を誘う時に、色々と考えを巡らしてしまうのは、僕自身のクセなのだから。そもそも静かに何も考えず、眠れるのは相当疲れている時ぐらいなものだ。眠りに就くまでの間、その時間がとても退屈で、その退屈を埋めようと考えが巡るのも当然か。でもまあ、気が付いたら寝ているんだけど。
 それにそろそろ、意識が薄れてきているような、いないような。さっきまでの話も何か矛盾があったような、ないような。というか、あっち行ったり、こっち行ったりしていなかったか?
 ……。まあ、いいか。せっかくなんだし、続きを。
 えっと、どこまで行った? ……。ああっ、そうだ。
 まあ、結局の所、試験研究段階であって、実用化技術としてはまだまだということか。
 1番進んでいる牛への利用でさえもこの通り不完全なのだから、ヒトへの応用など、どれ程先のことになることか。いや、どちらにしろ、だ。それが確立しようが、人への利用はないだろう。現在、人に関する研究は制限されているし。
 それにそもそも人間のクローンに対して、幻想を懐きすぎなんだ。
 ある倫理委員会の会議でのこと。
 クローンに関する議題が挙がった時、その場にいる誰もが本能的な恐れから禁止の意見を述べ、禁止する理由にはどのようなものがあるか検討された。
 でも、一見して明白だった理由はすぐに崩れ去る。なぜならば、クローンによって生まれた存在が個体性の抹消に関する脅威は現実のものではないという考えへすぐに至ったからだ。重複するのはあくまで遺伝子だけであり、個体の複製ではないのは分かりきったことなのだから個人の独自性は保たれる。そういった考えが出るのもクローンに対する数々の幻想がそうさせるのだろう。
 その1つに不老不死という幻想がある。自分のクローンを作れば、脳移植をして若い自分のクローン体で永遠に生きるとかなんとか。そもそも脳移植という考えに無理があるだろうに。どれだけ天才だというんだ、その脳移植をする医者は。まあ、僕が知らないだけで、この世のどこかにはそんな天才もいるかもしれないけど。
 他にも昔の偉人を復活させるとか考えた者もいるけど、それも無理な話だ。さっきも言ったけど、重複するのはあくまで遺伝子で、複製ではない。完全に再現するためには元となる人間が過ごした生活を完全に再現する必要があるけど、そんなこと不可能。だから決して同じ人間など出来ない。
 ……表向きは、普通は、だけど……。


「兄さん、朝ですよ。ほら、起きて下さい。朝食の用意もできていますよ」
 ……朝か。しかし、トワは起こす気があるのだろうか? この揺さぶられる感じは深く記憶の底に眠っていたであろう幼少期に体験したゆりかごの中にいる錯覚さえ呼び起こすぞ。まさかトワはこのまま僕を眠りにつかせ、2度と訪れはしない青春の1ページであろう今日という日の大切な時間を奪い去ろうと考えているのではないだろうか?
 うーん、それは違うか。では、なんだろう? まさか僕に抱いている尊敬という気持ちを恋心だと勘違いして、寝ている僕へ頬を染めながら初めてのキスをしようとしているのか。いやいや、兄妹でそれはまずいって。それにトワが尊敬しているかどうかなんてわからない。……抱いていないのだろうか? 兄としては尊敬されていたいのだが。ただ普段の行動からして尊敬されるような行動を取っているか? ……いない、かも? ああっ、なんか考えてみると尊敬されるような行動を取っていないな。そもそも今、家のことはトワがほとんどやっているし、僕が養われている感じだ。尊敬が恋心に変わるという線もないか。
 それに初めてのキスって考えたけど、もう誰かとしているかもしれない。トワも中学2年生だしな。彼氏がいてもおかしくはないか。……。誰だ、彼氏って!? 僕はまだ紹介されてもいないぞ! いや、待て。そもそも兄に彼氏を紹介するものなのか? というよりも、こんなダメダメな兄の姿を見せて、彼氏に嫌われるのが嫌だと考えて紹介しないのかもしれない。そうか、それか。……。誰だよ、ダメダメな兄って! ああっ、僕か。
 しかし、そうか。トワにも彼氏が。でも、誰だろう? 普段の話から出てくるような相手か? というと、コタローくんか? それともシンさんとやら? まずタッキーという存在は僕が認めないのでなしとしよう。となると、この2人のどちらかだな。……いや、安易な考えはやめよう。そもそもどこからがおかしい? 彼氏がいるという考え辺りか? ダメダメな兄という考え辺りか? ……。ああっ、なるほど。最初からおかしい。
「もう、兄さんったら起きる気があるんですか? 今日は出掛けるから起こしてと頼んできたのは兄さんですよ。……。とりゃあ!」
「ぐほっ!? なんでいきなりダイブ!? トワももう中学2年生でしょうが! そんな幼児がやるような行動は兄さんが許しません! いや、嬉しいんだけどね、本当は。というか、案外苦しいからやめて! それにほら、起きたから! だから再び僕の上にダイブしようとしないで!」
 部屋の端へと行き、この部屋内でできる最大の助走距離を確保して、今まさに2度目のダイブをしようとしているトワを止めようと僕はベッドから跳ね起きた。それを見て、トワもダイブを止めてくれたのだけど少し残念そうなのはなぜだ?
でも、本当によかった。しかし、不意を突かれるとこちらも無防備だから痛いというよりも上からの衝撃でかなり苦しかった。一瞬息が止まったもん。
「わかりました。早く降りてきて下さいね。二度寝はだめですよ」
「わかった」
 トワが部屋を出た後、ドアに向いていた視線をカレンダーへとやる。
 今日が何月何日か、改めて確認して、僕はベッドを降りた。


「美味しい」
 自然に口からその言葉が出た。それはもう条件反射のように。
 諸事情により、僕は昨日まで家を空けていた。その間、自炊をしていたのだが、やはりトワの料理には遠く及ばない。日々料理をしている者と稀にしか料理をしないものの差か。
 現在両親が不在のため、僕とトワは2人で暮らしている。
 料理は2人暮らし当初よりトワが担当。母さんがいた間に仕込まれていたため、安心して我が家の食卓を任せられる。
 それにしても美味しい。自然と箸も進んでしまう。
「美味しく食べてくれるのは嬉しいのですが、いい加減自分で起きるようになって下さいね。もう子供ではないのですから。来年は大学4年生。再来年は大学院に進まないなら、社会人ですよ?」
「そうは言ってもだな、トワ。起こしてくれる人がいると思うと、安心しきって起きれないんだよ」
「では、起こしてくれる人がいないと思って下さい。心掛け次第で起きることぐらい出来るはずですよ」
「トワ、なんだか冷たい……」
「冷たくないです。それと、そんなしょんぼりした顔しないで下さい。潤んだ眼で見つめてこないで下さい。おかずあげるから許してと、お皿をよこさないで下さい。やれやれのポーズをしないで下さい」
「はっ! やっぱり、彼氏ができたのか!」
「できてないです! というか、なぜそんな話に!?」
「きっと兄が邪魔なんやー! 世話がかかる兄が邪魔なんやー!」
「何で方言になるんですか! しかも、どこの方言!? そして、泣く真似は止めてください!」
 毎度のことながら、トワの反応を見ていると楽しい。だから、ついついからかいたくなる。そんな自分になんとも困った性格をしているな、と苦笑してしまう。
「ところで、ちゃんと出掛ける準備はできていますか?」
「うん、出来ているよ」
「そうですか。帰りは遅くなります?」
「いや、そんなに遅くならないと思う。それから夕食のことなんだけど、牛肉が食べたい。昨日、寝る前にふとそう思ったんだよね」
「牛肉、ですか。わかりました。車には気を付けて下さいね。それから、ハルカ姉さんによろしくと」
「うん、了解」


「11秒の遅刻だ。手を上げて、後ろを向け。その眼が映す景色を焼き付けろ。それがこの世で最期の景色だ」
 声を無理やり渋くし、銃の形に構えた手を、1歳下のアサは僕へと向ける。
「おはよう、アサ」
「おはよう、夜くん。11秒の遅刻だよ。ん、うん。さあ、後ろを向きたまえ。最期に景色をゆっくり見る時間ぐらいは与えてやる。それが散っていく貴様への最後の情けだ」
 またも無理やり声を渋くして、不敵な笑顔を見せながら促してくる。
 きっと、以前一緒に見に行った映画のガンマンの真似をしているんだろう。あの映画は面白かったな。まさに傑作と呼ぶに相応しい作品だった。この前、その映画のDVDが発売されたから買ったって言っていたな。
 僕はそんな彼女の手を優しく横へ払い、左手にした腕時計を見せて言う。
「まだ約束の10分前だけど」
 だけど、それをアサは手で制し、ちっ、ちっ、ちっと人差し指を振る。
「知っているよ。でも夜くんは10分前行動を心掛けているので、その10分前を11秒過ぎたので遅刻なのです。というより、女の子を待たせたので、ダメダメです。『めっ!』だよ」
「じゃあ、行こうか」
「いや、スルーしないで下さい。そして、本当に行かないで」
 僕たちは肩を並べ、目的地である霊園へと向かって歩く。
 目的の霊園は都心からも近く、交通の便も整っていて行きやすい。
 ここからだと、駅まで歩いて、電車で1時間弱。
 また、都が管理運営する公営霊園だから、永続性も保証され、設備も整っている。
 しかも、永代使用料や年間管理費も比較的安く、金銭的にも優しい。
「夜くん、忘れ物はない?」
 アサは、僕が左手に持った手提げ袋を覗き込んでくる。
 それをアサの目線まで持ち上げて、答えた。
「大丈夫。ちゃんと持ってきたよ。ああっでも、供えるお花やおはぎは途中で買わないと」
「じゃあ、駅前のお花屋さんと和菓子屋さんに寄ろうね。あっ、ところで――」
 アサが先程真似ていたガンマンが出てくる映画の続編がもうすぐ公開されることになったという話を聞きながら、僕たちは駅への道を歩いていく。
 天気は良いけど、風は冷たい。だからか、アサが空いた手を握ってきた。その手は暖かくって、少しだけ寒さを和らげてくれる。
 道中は世間話に花を咲かせた。本当に他愛の話だが、面白くってつい笑ってしまう。
 駅前の商店街に着くと、まず和菓子屋でおはぎを買い、お花屋さんで花を購入。
 花は、カサブランカ。ハルカの好きだった花だ。


「これより、ハルカの家を掃除しよう計画を始めます」
「了解であります、隊長!」
 場所は霊園、神崎家の墓石前。
 その開始の合図を皮切りに、分担を決めて掃除を始めた。
 僕が墓石を磨き、アサが周りを掃く。前回からあまり日を置いていないためか、それほど汚れがあるわけでもなく、掃除は間もなくして終わった。
 それから墓石に打ち水をし、花立に持ってきたカサブランカを添えて、水鉢に新しい水を注ぐ。そしてお皿代わりに、半紙を置き、その上に買ってきたおはぎをお供えした。
 お線香に火をつけ、それを収める。そして、水桶からひしゃくで水をすくい、墓石の上からたっぷりと水をかけて、2人並んで手を合わせた。
 眼を瞑り、僕らは近況を伝えていく。
僕のこと、父さん、母さんのこと。それから、トワのことを。
 報告も終わり、眼を開けて横を見ると、ちょうどこちらを向いたアサと眼が合った。
「報告、終わった?」
「終わった。さあ、帰ろうか」
「うん、帰ろう。それじゃあまたね、ハルカちゃん」
「またな、ハルカ」
 僕らは忘れ物がないことを確認し、ハルカに別れを告げて、その場を離れた。


 帰りの電車の中で、向かい側の窓の外をぼうっと眺めていた。
 いつものことながら、この帰りの電車で考えることがある。
 トワとハルカのことだ。
 トワは、亡くなったハルカの細胞を使って生まれた世界で唯一のクローン体。
 生み出したのは、今の父さん――神崎誠一だ。
 現在、世間では人のクローンを創ることに制限があり、禁止されている。また、クローン技術自体も安定したものではなく、まだ試験研究段階であり、世界各国でその技術確立を目指している。
 にもかかわらず、父さんは、すでに技術を確立させ、その技術を中心にトワを生み出した。体細胞クローン技術だけでハルカのクローン体を作っても、先天的に持ち合わせた病によって再び若い命を落とすことになる。
 そこで父さんは身体情報さえも書き換えた。それにより6歳前後で命を落とすはずのトワも現在14歳になって、元気に学園へ通っている。
 ハルカには本当のことを伝えていない。トワが自分の代わりに創られた存在だということを。知っているのは、父さんと母さんとの間に生まれた僕たちの妹としてのトワだけだ。
 そして、逆も同じだ。トワには本当のことを伝えていない。ハルカの代わりに自分が創られた存在ということを。知っているのは、自分に亡くなった姉がいたということだけだ。
 ……言えるわけがない。
 ――ハルカ、この子が君の代わりとして創られたトワだ。
 ――トワ、君はここで眠るハルカの代わりに創られたんだ。
 神崎家の墓石前で、そんな対面をさせるわけにいかない。上手く言ったって、その事実は変わらない。ただ、2人を悲しませるだけだ。
 すでに亡くなっているハルカにそんなことを伝えてどうなる? トワの存在がハルカにどう映る? 今まで何度もトワと一緒にハルカの眠る神崎家の墓を訪れたことがある。もし、その時に本当のことを伝えていたらどうなる? 自分から創られたそっくりの少女を見て、本来あるはずだった成長していく自分の姿をトワに重ねるかもしれない。自分のいる場所に代わって入り、楽しんでいるトワを見て、ハルカは何を思う? トワが自分の存在に上塗りするため、自分の存在を掻き消すために創られた存在として映らないだろうか? そんなのは、悲しい。
 それにトワのアイデンティティはどうなる? 遺伝情報が重複しているだけで、他は違うということだけを伝えて納得するだろうか? 自分は世界で唯一のクローン体という存在。前例がないのに、そんなこと誰がわかるという疑問を懐くかもしれない。外見は瓜二つ。なら、考え方だって同じかもしれない、自分の懐く感情は全てハルカのものかもしれない、と。元々は神崎ハルカという存在の複製なのだから。意識、感情のクローンも行われているかもしれない。なら、私はどこにある? そういった様々な感情をトワが持ったっておかしくない。そのことを知って最悪の場合、自我の崩壊などを起こすかもしれない。
 ハルカにしろ、トワにしろ、それは僕の考えであって、実際はどうなるか分からない。良い方向に転がるかもしれない。でも、そんなことわからない。もし、悪い方向に転がったことを考えると怖くて仕様がない。そしたら、また家族を失うことになる。そんなのは絶対に嫌だ。絶対に。
「……くん。夜くん!」
「ん?」
 声の先を見ると、先に降りていくアサの姿があった。窓の外を見ると、目的の駅に到着しているのが分かる。
「ほら、降りる駅だよ。ぼうっとしていると乗り過ごしちゃうよ」
 全くその通りだな。
 僕は巡らしていた思考を中断させ、先行くアサを追って電車を降りた。


「昔、あの公園でよく遊んだよね」
 お店の外に見える公園をアサが懐かしそうに見つめている。ここら辺は大学へ向かう通学路から外れているので、最近はあまり通らない。今日はこのお店に向かう通り道だからたまたま通っただけだ。家からも決して遠いわけではないけど、公園で遊ばなくなってからあまり来たことがない。本当に久しぶりだ。
「そういえば、トワちゃんに一時期冷たかったよね」
「ん?」
「公園で遊んでいる子供たちを見ていて思ったの。ほら、あそこで泣いている女の子とあやしているお姉ちゃんらしき子がいるでしょ? 夜くん、今はとても妹想いのお兄ちゃんだけど、昔は『お前なんか僕の妹じゃない! お兄ちゃんって言うな!』とか言ったりしていた時期があったな、と思って」
「そうだったっけ?」
「そう。それでトワちゃんがいつも泣いていて、私がトワちゃんをあやしたり、夜くんを叱ったりしていたんだよ」
「記憶にございませんね」
「ふう。夜くんは、都合が悪くなるとすぐに誤魔化そうとするんだから」
 本当は覚えている。
 あの頃、まだハルカが亡くなったことを受け入れられないでいた父さんたちは、トワのことをハルカと呼んでいた。トワはまだ幼く、不思議がっていたのを覚えている。だから、僕は両親に言ったんだ。彼女はトワであって、ハルカじゃない、と。
 でもそれは、自分に向けた言葉でもあった。
 だって、両親の気持ちも分からないではなかったから。トワを見る度にハルカと重ねている自分がいたのも確かだった。トワが僕を呼ぶ声が、僕に見せるその姿形に表情が、ハルカとダブって見えてしまう。否定しても、否定できないでいた。
 そして、そんな時にふと思ったんだ。トワはハルカの存在を消す存在だと。こいつがいるから皆、おかしくなる。コイツをハルカと重ねるたびに本当のハルカが消えていく。そして最後には、ハルカが死んだという事実さえ消して、コイツはハルカに成り代わろうとしているんだ、と。
 だから、トワが『お兄ちゃん』と呼んで笑顔を見せるのが憎らしかった。その顔はお前のモノじゃない。その体はお前のモノじゃない。その声はお前のモノじゃない。僕の妹はハルカだけだ、と。
 なんとも馬鹿げた話だ。いくら当時、自分がまだ小学生だったとはいえ、そんなことを思ったなんて。
 だけど、転機はあった。あれはトワが病気にかかり、入院した時のこと。
トワの先天的病に対する書き換えは成功していたけど、後天的病への対処が完全ではなかった。そのためにかかった病気が原因で入院することとなった。でもトワのかかった病気は、ハルカやハルカの母さんたちの病気と違い、十分に対応できる医療が確立され、1週間で完治して退院できるモノだった。だから、父さんたちは僕に大丈夫だと言ったけど、僕にはその言葉が信じられなかった。以前、ハルカが入院した時にもその言葉を聞いていたから。
 だからまた、家族を失うことになる。そう思った僕はトワのいる病院に向かったんだ。
 病院は、とっくに面会時間を終えて消灯されていた。だけど僕はかまうことなく、見つからないようにトワの病室へと忍び込んだ。病室に入ると電気はもちろん消されていて、月明かりが寝ているトワを照らしていた。でも、僕にはそれが死んでいるように思えて、トワの名前を呼んで揺さぶり起こした。寝ているトワには、迷惑な話だ。
 眼を覚ましたトワを見て、僕は一安心した。けど、その後胸が痛かった。僕を見たトワが怯えるような顔をしていたからだ。当然の反応だと思う。なにせ、僕はトワにつらく当たっていたんだから。
『ごめんなさい』
 僕は何度も謝った。お兄ちゃんは、妹を守らなくちゃいけないのに。僕がしてきたことを思い出しては謝った。恥ずかしくって、悔しくって涙が止まらなかった。トワはトワであって、ハルカであるはずがない。ハルカの代わりがいるわけがない。そんな当たり前のこともわからなくなっていたなんて。
 その後、病室にいるところを看護士さんに見つかって、とても怒られた。さらに家へ連絡が行き、迎えに来た両親にもこっぴどく怒られた。とどめに、寒空の中、部屋着のままで出掛けたせいか風邪を引いたのを覚えている。
「……確か、トワちゃんが入院した辺りから優しいお兄ちゃんに戻ったはず! でしょでしょ?」
 別にクイズにした覚えがないのに、アサは「アンサー、アンサー!」と机を叩く。
 なぜそんなに楽しそうなんだろうか?
「いや、だから覚えてないって。というか、よく覚えているな」
「だって、トワちゃんは私にとっても妹のような存在だもん。あんなに可愛いトワちゃんを夜くんは『妹じゃない!』とか言って。また悪いお兄ちゃんになったら『めっ!』だよ」
「了解」


 昼食を済ませた僕たちは、我が家に向かって歩いている。
 僕たちと言うからには1人ではなく、複数人。つまりはアサも一緒だ。
 アサを家まで送り届けると、「ちょっと待っていてね」と言われ、しばし待機。
 数分後。
「お待たせ、夜くん。さっ、夜くんの家に行こう」
 と、肩掛けカバンを持って出てきたアサは、我が家に向かって歩き出した。
「えっ、なんでウチに?」
 先を歩いて「おいでおいで」と手招きしているアサに追いつき、訊ねる。
「もうすぐ冬休みに入ります。そして冬休みが明けると、怖い怖い定期試験がやってきます。私はだめだめな女子大生。1人では、てんてこ舞いです。そこで助けてくれる優しい先輩が必要です。それは誰か? キュピーン! 閃きました。そう、夜くん。否! 夜先輩です! と、言うわけで今日は夜先輩の家にお邪魔して、勉強を教えていただきたいと思う所存であります」
「面倒」
「却下」
 といったわけで、今現在2人並んで我が家に向かっている。
 そもそも頼む立場でありながら、頼まれた側が断っているのに、それを認めず押し通すというのはいかがなものだろうか。まあ、そうは言っても、この後の予定がないので構わないけど。
 そんなことを思いながら、我が家への道を2人並んで歩いている。


「お邪魔します。あっ、トワちゃんのお友達がたくさん来ているみたいだね」
玄関を入ると、綺麗に並べられた靴が幾つもあった。
そして、トワの部屋の方から賑やかな声が聞こえてくる。
「もうすぐ期末試験だから、今日はウチで一緒に友達と勉強するとか言っていたな」
「そうなんだ。なら、私たちも負けてられないね。ファイト、オーだよ」
「オー」
 返事をしながら、僕たちは僕の部屋へと移り、さっそくアサの勉強をみることにした。
「で、向かっている最中に話は聞いたけど、確かにあの教授の試験問題は捻くれている。まあ、面白味があっていいけど」
「よくないよ。私、ただでさえ分からないのに。助けて、夜くん!」
「了解。じゃあ、まずは――」
 面倒だとは言ったけど、一旦引き受けた以上はきちんと教えなければならない。
 僕は出来るだけ、分かり易いように内容を噛み砕いて教えていった。アサも僕が相手だからか、疑問に思ったことをすぐに尋ねてくる。
 そんなこんなで一段落ついた。
 なので、僕は確認のため、幾つか問題を出した。先程までに勉強したことが身についていれば、問題なく解けることだろう。それでもアサが問題を全て解くまでしばらく時間がかかる。
 待っている間、暇を持て余した僕の思考は再び頭の中を巡らせ始める。今日がハルカの命日だからか、浮かぶのはそれに関連したことばかりだ。
 今だって、昔のことが浮かぶ。新しく僕の父親になった神崎誠一は、世間では天才と呼ばれている男の1人だ。様々な分野に精通した知識を生かし、世に幾つもの利益を与える発表をしてきた。そのため、多忙であり、家族と一緒にいるところをあまり見たことはなかった。まあ、それはウチも一緒だった。亡くなった父さんは今の父と親友であり、仕事仲間でもあった。そして、アサの両親、僕の母さんも同じく。だからか、僕もアサもハルカの家でハルカの母さんに面倒を見てもらっていた。おばさんに連れられて、色々なところに遊びに行ったものだ。
 けど、おばさんは治ったと思われていた持病が再発し、入院するもそのまま家に戻ってくることはなかった。そして、時期を同じくして父さんも……。
 それから今の父さん、母さんが再婚をしてハルカは僕の妹となった。今まで仕事ばかりだった父さん、母さんも第一線を退き、出来るだけ残業が少なく、休みが取れる部署に移った。そのおかげで僕たちは両親と遊べる時間が増え、僕もハルカもその時間を楽しんでいた。
 けど、しばらくしてハルカも自分の母親と同じ病を発病。対処方法が確立したのは、ハルカが亡くなってすぐのことだった。
 そこで悲しみに暮れているだけなら、まだよかった。でも、父さんは違った。自分にはハルカを蘇えらせる術があるではないかと、世間への発表はまだだった個人で確立させていたクローン技術を基盤にハルカを蘇えらせようと試みた。妻を亡くし、子を亡くしたショックで父さんは壊れていたのかもしれない。そして、僕の母さんも。
 父さんは新たな肉体として体細胞クローン技術を使って肉体を準備し、父さんの友人により確立された記憶転写技術の使用を考えていた。この記憶転写技術も公にはされていない技術の1つだ。この他にも世間では公表されていない技術が幾つもある。今の話には関係ないけど。まあ、とにかく。
 こういうことのためではないけど、父さんは以前に僕やハルカの記憶をある程度保存していた。その保存された記憶を、ハルカの体細胞から創り上げたクローン体に移す。
 ハルカの記憶を持ち、生前と変わらぬ姿に成長するその子は、神崎誠一にとって、また他の者にとっても、神崎ハルカに他ならないだろう、と。
 それに母さんは賛同した。母さんもハルカを実の娘だと思い、接してきた。亡くなった父さんのことで痛んだ心の傷が治りかけてきた時に起ったハルカの死が母さんを動かせたのだろう。問題とされていたクローン体を生むための代理母も、自らが志願してなった。
 そして月日は流れ、クローン体は生まれた。
 僕が案内された白い部屋の中、静かに眠る赤ん坊を見せて父さんは言った。
「ほら、夜。ハルカだよ」
『トワ』と名付けられた『ハルカ』は、皆に可愛がられて、すくすくと成長していった。
 その成長してく姿を見て、確かに僕もハルカそっくりだと思った。だから、僕も『トワ』を『ハルカ』に重ねていた時期があった。
 でも、やはり『トワ』は『トワ』だった。
 声が似ていようと、笑顔が似ていようと、『ハルカ』ではない『トワ』という存在が確かにそこにあったんだ。それは、父さんにしろ、母さんにしろ、同じだった。
 記憶転写は保存された年齢に到達してから行うことになっていた。それは『トワ』という存在の上に亡くなった『ハルカ』の存在の上書きだ。
つまり、それまで肉体維持のために存在した『トワ』の消滅を、両親が望んだ存在である『ハルカ』の蘇生を意味している。
 けど、記憶転写が行われることはなかった。『トワ』は、両親にとってすでに失うことなどできない大切な存在になっていたからだ。
「――夜くん」
「ん?」
「『ん?』じゃないよ。はい、出来た」
「ああっ、どれどれ」
 結局、ハルカ蘇生計画は中止となった。そして、トワがクローン体であることは最初と変わらず秘密となっている。まあ、色々と公に出来ない事情があるからな。
 その後、変わらず、いやそれ以上の愛情を注がれたトワは事情を知らぬまま、現在へと至る。そして、トワが中学生に上がると同時に両親は第一線の仕事に戻っていった。
 でも両親は、ハルカの命日や誕生日などには霊園に寄っているし、トワにも毎日メールなどを送り、誕生日などのイベントごとにはきちんと帰ってきている。忙しくて、とんぼ返りではあるけど。
「よし、正解。じゃあ、次にいってみようか」
 父さんたちは、現実から逃げた。ハルカが亡くなったという現実から。
 だけど、あの日。『トワ』を『ハルカ』でなく、『トワ』として受け入れた日。
 父さんたちは、再び現実を受け入れることが出来た。少しずつ、少しずつだけど。
 そして同日、父さんたちは僕に謝った。
 巻き込んでしまったことを、苦しませてしまったことを。
 そして、これからも続くトワたちへの秘密事を抱えさせたことを。
 確かに、時折そのことで苦しむことがある。例えば、今日とか。
 でも、仕方がないことだ。僕らは、家族なのだから。
 苦しい時は支え合い、楽しい時は分かち合う家族なのだから。
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